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改めて考えた「兵庫県知事選挙のこと」(3)【若い世代の苦悩に全く向き合わない「上の世代のエリート・リベラル」がもたらすもの】
兵庫県知事選挙について考えています。前回はこちら。
東京都知事選から今回の兵庫県知事選挙までの一連の選挙結果は、私は現実と向き合わないリベラルの敗北と総括すべきかなと思っています。
結果が出るたびに、憂いては見せるものの、現実を見ようとしない彼らの言動は、若い世代を中心に全く共感を得ていないということかなと理解しています。
それは、50歳代をボトムラインとするそれよりも上の世代のリベラル、とりわけエリート・リベラルということになりそうです。
↑で書いた、いまや50歳代近辺に上がった境界線の下の世代にリベラルの言説は影響を持てていない。
なぜ50歳代より上のエリート・リベラルの言説はその下の世代に響かないのか。
それは、下の世代が感じている厭世観を理解していないからではと思っています。
その下の世代の先頭に立つのは、「就職氷河期世代」です。
ここから下の世代は、マスの観点では経済の面で「何らいいことがなかった世代」。
上の世代が生きた時代では、生まれた年代によってあてはまる、あてはまらない、はあるものの、
普通に就職でき、給料も順調に上がり、終身雇用が守られ、非正規雇用もなく、消費税もなく、重い社会保障負担もなく、高金利で貯金も増えた。
世代によっては、バブル経済の恩恵も受けた。
24時間働けますか?という価値観で馬車馬のようにこき使われる経験もした世代ですが、それのリターンもちゃんとあった。
そんな世界は、下の世代には夢物語でしかない。
今は、働かされるだけ働かされて、それに見合う給料もなく、それどころか、収入に見合わない「税と社会保障の一体高負担」を押し付けられている。
こんな社会で、希望を見出すことができるかと言えば、そうではないという理解が当然だと思います。
本来は、リベラルの人たちがこれらを理解すべきはずですが、上の世代のエリート・リベラルはわかろうともしない。
それどころか、
・石丸に投票するなんてありえない。
・103万の壁程度の話が争点なんて、民主主義の危機を理解していない。
・面白可笑しく選挙に行く連中なんてありえない。
とか言っているわけですから、若い世代の共感など得られるはずもない。
自分たちの力のなさを棚に上げて、下の世代の選挙行動に刃を向けるのですから、彼らがエリート・リベラルに絶望するのは当然ではないかと思います。
今の若者が感じている厭世観は、結果として民主主義の破壊に何ら抵抗を感じなくなっている。
それは、若い世代は、加速主義を牽引しているとも言えるのでしょう。
それがエリート・リベラルにとって、眉をひそめる結果となれば、彼らの地団駄を踏む姿が痛快に見えてしまう。
だったら、どんどんやってやれ
という雰囲気を醸成しているのではと思っています。
今の日本のリベラルは、弱者にすら寄り添っていない。彼らが大事にしているのは、若いころに大事だとされた教養本に書いていあった「正しいとされるもの」ものではと思っています。
そのことが破壊されると自分たちの立ち位置の基盤が崩れる恐怖感あるのでしょう。
こんな程度の現実で立ち位置が揺らぐと考えているようであれば、その思考基盤はそもそも脆弱であったと気づくべきしょうが彼らはそうは考えない。
自分の思考が血と肉となっていないから、こんな現実ですらグラグラする。
自分たちの教条主義への自己批判は求められてしかるべきだと思っています。
エリート・リベラルが憂うべきは、今の現実ではなく、現実に何ら影響を持てない自身の思考であることに気づくべきではと思います。
それは、若い世代の苦悩を理解していないことを出発点にしている。
なぜ彼らは、若い世代の苦悩を理解しないのか。
それは、エリート・リベラルも通俗道徳に侵食されているからだと思っています。
それは、就職氷河期世代が、今もなお苦しんでいることへあまりに冷淡な態度をとることがそれをよく示していると思います。
さらに言語化できているかどうかは知りませんが、「若者は努力が足りない」と思っているのでしょう。教養が不足しているのは、努力が足りないと本気で思っている。
上の世代のエリート・リベラルは、麻雀三昧の片手間であっても教養と向き合う時間があった。
しかし、今の大学生は違います。奨学金という「サラ金」に拘束されている。だからアルバイトをせざるを得ないのがデフォルト。
さらに役に立つのかわからない教養に時間を割くことはできず、「現世利益」のある資格であったり、語学であったり、企業でのインターン活動に時間を取られている。それがやりたいことなのかすら考える暇もなく、そうするものという現実を生きている。
そこまで資本の力は若者の「時間という資産」を食い荒らすほど侵食しているという理解はあるのでしょうか。
その現実を見ずして、若者を責めるのであれば、話を聞いてもらえると思う方がどうかしていると思っています。
下の世代は、「どうせ、お前たちは逃げ切れるとおもってるんだろう?」という先入観でしか見られてないことをよく考えるべきしょう。
若者は、今の現実にウンザリしている。だから彼らは、異世界ものと呼ばれるジャンルのエンタメを好む。この世のどこに希望があるのか。
希望があるのは、ここじゃない、「異世界しかない」という厭世観。
こんな地獄を作ったのは、大人です。
その責任感もなく、上から目線で何を言ってるのかと自省すべきではと思います。反省する姿勢がないのであれば、この国の破壊はどんどん進むでしょう。
若者は、この国の未来に希望を持っていません。かろうじてあるのは、自分の未来への自己防衛だけ。
あの人物が選挙をセンキョという祭りに変えたという視点が正しいとするならば、この兵庫県知事選挙でおきたムーブメントは、ウンザリな日常の一服の清涼剤として、若者のせめてものカウンターだったのではと私の目には見えています。
変わるべきは若者ではなく、大人ではないでしょうか。それは、当然私も含まれます。その自覚を改めて持つべきだと思っています。
世の中がおかしくなってきているのではなく、とうの昔にすでにおかしくなっている。その環境から生じている現象が今、社会で起きていることだと思います。
兵庫県知事選挙などその氷山の一角ではと思っています。