ひろゆき氏問題で晴れた「個人的な」違和感
西村博之(ひろゆき)さんの問題が波紋を広げています。
予め申し上げておきますが、本稿は、沖縄の辺野古基地建設についてを論じる内容ではありません。
ひろゆきさんのような人たちが生まれていく背景について考えたいと思います。
彼らは何者なのか?
ひろゆきさんは、論破王と呼ばれているそうですが、私の認識は、世代的に「2ちゃんねる」創始者であり、賠償金を払おうとしない人という理解がしっくりきます。最近、テレビやネット番組に登場している姿をみて、「賠償金は、どうなってるのかな?」と思う程度です。
基本的に関心はなく、私にとっては、堀江貴文さん、橋下徹さん、田端信太郎さん、古市憲寿さんなどと同一のカテゴリーに属する人たちで、私個人の意見としては、毒にも薬にもならぬ人たちという理解です(正しいとは言っていません。お好きな方は、ゴメンナサイ)。
一方で、このような人たちをインフルエンサーと呼ぶそうですが、彼らをそのように呼ぶにはいささか違和感がありました。私自身が、ちっとも「インフルエンス(影響)」されていないからです。まったく個人的な違和感です。
腑に落ちた彼らのカテゴリー
今回、ひろゆきさんの言動が一部で話題になる過程で、偶然、「ソフィスト」という言葉にぶつかりました。そうえいば、高校時代にならったなあと消えかかった記憶が蘇りました。ただ、単語を覚えているというレベルであったので、もう一度調べてみました。
こちらの動画がわかりやすいです。
先程、挙げた人たちは、現代のソフィストなのではないかなと感じました。インフルエンサーという言葉よりもよりしっくりきます。
理由は、
・彼らは彼らのもつ能力や技術、知識について教えを乞う人々に対して活動をしている点。
・著作物、YouTubeチャンネル、オンラインサロンで料金を徴収している点が挙げられます。
そして、何よりしっくりくるのは、彼らが巧みな弁論術によって評価を得ている点です。
ひろゆきさんが「論破王」であることが人々を引き付けるのは、何とも時代の因果を感じさせるなと思います。
念のために申し添えますが、彼らの求める対価は常識的な範疇である点は、ソフィストとは違っていることは強調しておいていいでしょう。
彼らが支持されるのは、人々が合意形成を求めないから?
今の時代、私たちは簡単に分断させられてしまう危うい側面をもっています。些細なことが分断の理由になるという点で、コミュニケーションが難しい時代とも言えると思っています。
「多様性」が大事であると言われる時代にあっても、その反動的な言動もまた加速している時代でもあります。ヘイトスピーチを飛び越え、ヘイトクライムとなる事例も出てきています。
ベストセラー作家が、電車や駅の案内板で近隣諸国の言語が使われることに不快だと言及し、それが共感をもって一部の人に伝播するのは、分断を加速させていると感じます。
分断された考え方の極に近い立場であれば、あるほど歩み寄ることや対極の人々に理解を示すことは難しいのではと感じます。それは、合意形成はほぼ不可能であることを意味すると思っています。
合意形成が難しい時代であればあるほど、意見の異なる人々の存在は、不安心理を醸成させられることとなり、そのような人たちに対して、絶対的な優位性を持てる技術は魅力的に映るのかもしれません。
もちろん、ひろゆきさんたちが、そのようなことを主とする目的で活動しているとは思いません。しかし、彼らを支持している人の一部が、「目障りな奴らを黙らせる手段」として、彼らのもつ弁論術を熱く信奉しているのもまた、一つの側面かなと感じなくもありません。
合意形成は諦めるが、自説を通すこともしないが妥協点か。
私は、今の時代は合意形成を求めることは難しいということでいいのではと思っています。
多様性の尊重、ポリティカルコレクトネスなど「正しい」とされることについて、どうでもいいと考えることもあっていいと思っています。ただ、その考えを相手に押し付けたり、そう考えないことは悪であると言わないことが大切ではと思います。
無理な合意形成を求めることで、人間関係において無用な疲弊をする必要もないのではと思います。
大切なことは、諦めること。ベターな判断であったり、妥協点はこのあたりではと考えています。
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