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日曜日の本棚#49『デジタル・ファシズム』堤未果(NHK出版新書)【『デジタル化は、たぶん「社会も」ダメにする』。でも、それを誰も止められない】

日曜日は、読書感想をUPしています。

前回はこちら

ジャーナリスト・堤未果さんの『デジタル・ファシズム』です。
堤さんの著作はこちらでも取り上げています。

いわゆる告発系の本です。堤未果さんは、ジャーナリストとして私の中では「炭鉱のカナリア」のような存在として認識していますが、本書もそれに違わぬいろんな「告発」が詰まっています。

本書を読めば、「デジタル化って、素晴らしいね」とはとても思えないでしょう。デジタル化によって私たちの生活が便利になることは間違いところですが、それには、ちゃんとトレードオフの構造があることは現代人としてよく理解しておくべきことなのでしょう

作品紹介(NHK新書作品紹介より)

街も給与も教育も、米中の支配下に!?

コロナ禍の裏で、デジタル改革という名のもとに恐るべき「売国ビジネス」が進んでいるのをご存じだろうか?
アマゾン、グーグル、ファーウェイをはじめ米中巨大テック資本が、行政、金融、教育という、日本の“心臓部"を狙っている。
デジタル庁、スーパーシティ、キャッシュレス化、オンライン教育、マイナンバー……
そこから浮かび上がるのは、日本が丸ごと外資に支配されるXデーが、刻々と近づいている現実だ。
果たして私たちは「今だけ金だけ自分だけ」のこの強欲ゲームから抜け出すことができるのか?
20万部超のベストセラー『日本が売られる』から3年。
気鋭の国際ジャーナリストが、緻密な取材と膨大な資料をもとに暴く、「日本デジタル化計画」の恐るべき裏側!

所感(ネタバレを含みます)

◆シリーズ『デジタル化は、たぶん人をダメにする』を書いてきた私がたどり着く必然。

シリーズとして、『デジタル化は、たぶん人をダメにする』をコツコツと書いてきた。

ネタが割とあったこともあり、シリーズ化したが、とはいえ、そこまで長くなるとは思ってはいなかった。しかし、徐々に「デジタル化って何なのだろう?」という視点を持つようになると、「これって変では?」という感覚が育っていった。

元々は、デジタル化によって起きた自分自身への変化という視点であったが、自分に起きた変化は、結果として社会にも当然変化は起きるだろうという視点への拡大していった。

そのような視点があれば、本書に「流れ着く」のも必然ということなのだろう。

そして、個人で『デジタル化は、たぶん人をダメにする』のであれば、『デジタル化は、たぶん社会もダメにする』のではと思っている。本書はそれを告発する本となっていると思う。

◆資本が狙うデジタル化の3つのターゲットとその温度差

本書は3部構成で、資本が狙う3つのターゲットについて論じている。それは、順に「政府」「マネー」「教育」である。

本書の出版は2021年8月。約3年半の時を経て、論点が整理されている点があると思われる。デジタル化の影響は、「政府」>「マネー」>「教育」の順に強くなっていると感じるからだ。

著者はもっとも危惧すべきは、「教育」であり、だからこそ最後に論じているということのようであるが、現実には教育のデジタル化は、一服した感がある。理由は、シンプルで資本的にはそこまで「儲からなかった」からであろう。

また、現場レベルでは、そこまで「効果がなかった」からでもある。良い点ももちろんあったが、問題点もまた色濃く出たのも現実としてあったと私は思う。

教育は情報との境目が微妙で、デジタル化は、情報には向いているが、教育には実はそこまで向いていないという点が徐々に見えてきたからではないかと感じている。

また、「マネー」について、著者は財産税の観点から、2024年の新札切り替えから「起こること」を危惧していたようであるが、結果として取り越し苦労だったようである。ただ、新札への切り替えによって、何が起きる可能性があるのかは理解して損はない視点でもあった。

「マネー」については、大衆が「現金不要論」に賛意を示し始めると新しいフェーズに入るということなのかもしれない。

そして、本書が書かれた時よりもより強固になっていると感じるのが、「政府」である。本書の読みどころはここだと言い切ってもいい内容となっている。

◆資本より強固な「政府が渇望する」デジタル化

本書では、中国の例がよく出てくる。デジタル化によって、テクノロジーにおいても先進国の仲間入りをした中国は、政府主導でデジタル化を推進してきたことがよく理解できる内容である。

中国共産党の幹部はほぼ理系で、技術への理解は高い。そのため、適切な手を打つことができる点も要因としてあるだろうが、やはり、デジタル化を最も渇望するのは、「政府」つまり、権力であるということなのだろうと思う。

資本は、良くも悪くも「お金もうけ」という価値からのデジタル化であるが、権力が狙うデジタル化は、国民の統制であり、管理、監視であることは、当然の帰結となっている。

これまでのあの手この手による間接的コントロールから、デジタル化によって、直接的なコントロールが可能になってくる。この魅力を見逃す権力者などいるはずがない。

デジタル化によって、リアルに『1984』化が進みだすことは必然ともいえる。

PCやタブレット、スマートフォンのディスプレイは、まさに「テレスクリーン」であり、蓄積される情報は、国民統制の貴重な「力」として機能する。

これを権力維持に使わない手はない。その意味では、政府(権力)の視点からは、資本など「撒き餌を与えて飼い慣らす程度」の道具に過ぎない。

本書は、GAFAなどのデジタルプラットフォームが力を持つことの恐ろしさを書いているが、私はそれ以上に政府の力が強大化することの恐ろしさを感じた。

そして、この国ではマイナ保険証は、その突破口であることは論を待たない。マイナ保険証で便利になるので賛成というのは、あまりにピュアな視点であるということなのだろう。

いつの時代も私は権力(政府)を信じてはいけないと思っているが、今は「より信じてはならない」と思う。本書を読んだだけでも、デジタル化はその最たるものだろうと実感する。

◆デジタル化に抵抗するための、シンプルな手段

とはいうものの、デジタル化は、「便利さ」を前面に出して私たちに襲い掛かってくる。購買データを抜き取られているとは思うものの、カード決済やバーコード決済、通販は便利で、私も利用している。

そんな状況であっても、デジタル化の問題点は持っておくべきであり、可能な限りデジタル化から「降りる」ことを模索すべきだろうと思う。

私は、スケジュール管理は手帳で行っている。ノートを使い、できるだけ字を書くことに努めている。

「デジタルから降りること」は、誰にでも一つや二つできることがあるものではないかと思う。何でもかんでもデジタル化してしまうと、恐らくデジタル化を否定できなくなる。

そうでなくとも、デジタル・アディクションのようになっている現代人は多い。歩きスマホ、運転スマホは、日常的な光景でもある。

しかし、実はデジタル化でなくても、問題ないことは現実社会にはヤマのようにある。そのような視点で見ていないから見えないという点も大きいのではないか。

「デジタルにもできること」と「デジタルでないとできないこと」は別であって、それを峻別するためには、デジタル化への問題意識を持つことだと思う。

その視点を持つための手段として、デジタル化の問題点を意識させる本書の役割は大きい。堤さんの過剰とも言える問題提起は、まさに炭鉱のカナリアの役目を十分に果たしているといえる。

特にデジタル・ネイティブである若い人に手に取ってほしい本でもあると思っている。






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