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デジタル化は、たぶん人をダメにする(9)【人間の言語化能力を捨て去させるある力学】
デジタル化によって、人はダメになっていくのではないか。
私はそのような危機感を持つようになっています。
その危機感は何よりも自分自身の劣化を実感するから切実でもあります。少なくとも、デジタル化によって自身が進化しているとは思えません。
そんな観点から、記事を書いています。前回はこちら。
今回は、気象台が、130年続いた職員による目視での観測をやめるのだというニュース。
これまでデジタル化の問題点は「個のレベル」で感じたことを書いてきましたが、いよいよ「組織の在り方」に領域が広がるのかと震撼しています。
個人的には、あらゆる事象をデータを根拠とする定量主義的思考に危機感を持っていますが、気象台が今回、目視観測を事実上廃止する(東京と大阪では残す)のは、気象の世界でもそうなったかと感じています。
定量主義的の何が問題なのかというと、数値化されない情報が削がれてしまうことです。物事をデータ化できるということは、対象物を要素に分解し、その要素を数値化することを意味します。
しかし、何事もすべてを要素に分解し、それを数値化することはできません。
ダヴィンチの『モナリザ』を定量主義に沿って解析して、世界的な名画を人工的に創作できないのは、この定量主義の限界を示していると言えると思います。
気象レーダーや衛星を活用して自動化するが、判別の難しい「快晴」や「薄曇」「虹」などの観測項目がなくなる。気象庁の担当者は「技術が進展し、自動で十分に観測できるようになった。ばらつきがある人と比べ、均質なデータが得られるメリットがある」としている。
気象台の担当者は、自分が何を言っているのか理解できているのか唖然とさせられます。
データでは均一でも、人がやれば、ばらつきがあるとわかっているのになぜやめるのか。
ばらつきがると人が判断するのは、人の視点が多様であるからに他ならない。データのように一元的に収束しないからこそ、人がやる意味がある。
それがなぜ重要なのか。それは、本来人間は自然の中で生きてきたからにほかならないからです。
ここで紹介されているブラジル奥地のジャングルで暮らすヤノマニ族は、天気を表現する言葉を60以上持っているとされています。
それは、自然と共に生きる彼らにとって、必要なことだからであり、必要なことだからこそ、天気という概念の表現方法を開拓してきたとも言えます。
今回、気象台が選択した方向性は、天気を表現する人間の言語能力を自ら削ぎ落し、一元化に向かうデータに合わせるように、人間の思考を収束させ、コミットさせる方向にシフトしたことにほかならない。
それは、弊害でしかないと私は思っています。
地球温暖化によって、今後気象は、「想定外」に進むことが予想されます。
そして、そのパラダイムが何処で変化するかはわかりません。
天気のプロが、空を見上げずして、どうして今後の想定外も視野に入れないといけない気象に対応できると思うのか。
彼らの仕事はデータをとることではなく、天気を分析することではないのか。デジタル化思考は、自然をも侮る思考に収れんするのであれば、もはや百害あって一利なしともいえるのではないか。自然を侮るにもほどがある思考だと私は感じています。
デジタル化はここでまで人を狂わせるのか。地味ながらショックの大きいニュースだと感じています。