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体操五輪代表選手の飲酒・喫煙による辞退について思うこと【飲酒・喫煙を「根拠」とする「社会的制裁」は、どこまで理があるのか】

まもなく開幕するパリオリンピック。

もう、10年くらい前から、すっかりとオリンピックなどの大きなスポーツイベントに対して興味を失ってしまいました。このnoteで書くためのネタ探しも兼ねてチラ見する程度でやり過ごしています。

理由はいろいろありますが、一番大きいのは、私自身が心の余裕を失っているからだろうと思います。
のんびりと日常を離れてスーパーアスリートさんのパフォーマンスを楽しむ余裕がない。

日々、マイナスの情報ばかりが流れてくるのですから、そちらに意識を取られてしまうのも当たり前ではと思っています。

これは、見えないストレスになっているのは間違いないと思っています。

このストレス、現代人にとって生存を脅かすレベルの要因に今後なっていくのではと思っています。

そんな中、こんなニュースが流れてきました。

飲酒・喫煙は20歳からと法律で決まっている以上、このような判断となる理は当然にあるでしょう。

ただ、私は個人的な体験から、この選手に深い同情をしてしまいます。

私は喫煙者ではありませんが、若いころに煙草を吸っていた時期があります。それは、私の人生で一番しんどい時期でした。
あの頃の自分は間違いなく、煙草で救われたと思っています。

飲酒・喫煙とワンパッケージで語られますが、私は飲酒の害の方が大きいのではと常々思っています。
飲酒運転で人を殺すこともありますし、酔って暴れて事件沙汰になったりすることもある。アルコール依存症は、家庭崩壊することだってザラ。

それに対して、喫煙は自分の健康への害さえ、引き受ければ、他者への害といえば、副流煙くらいではと思います。

なので、どうしてそこまで煙草は目の敵にされるのか。

今は喫煙者ではない私の目にもヒステリックな対応にも見えなくもありません。

禁煙を求める根拠に一つに、煙草の依存性があるのは間違いないと思っています。私は、割と苦労することなく「足抜け」ができました。ある時、煙草を買い忘れたとき、今度でいいやと思っていたらいつの間にか煙草を吸わなくなっていたのです。

煙草を辞められないという人にその話をすると、「信じられない」と言われますので、体質の問題はやはりあるのでしょう。
(禁煙できないことを意志の問題とするのは、やはり問題が多いのではと思います)

今回の騒動の背景に、この選手が飲酒・喫煙をすることで、失ったことがあまりに多く、また結果的に懲罰的な措置となったことへの違和感が大きいのだろうと思います。

背景には煙草の問題に限らず、懲罰的な「見せしめ」への理解がそれなりに社会に存在することもあるのではと思います。

ただ、このような懲罰的な措置によって、抑止効果を期待するのは、多くの問題を孕むと前々から思っています。

能登半島地震の時に、一部の国会議員が「ボランティアに入るな」と声高に叫び、それを無視して現地入りした国会議員がバッシングにあうということがありました。

入るなという根拠があいまいである(理がないとは言っていません)こと、そのあいまいな情報を根拠にバッシングを行う風潮は、問題が多いと思っています。

というのも、「根拠」などいとも簡単に「創造できる」ことは、かつての治安維持法の運用を見るまでもなく、恣意性を内包するからです。

喫煙は、なるべくやめたほうがいいと私も思います。ただ、喫煙によって救われている人は多い。それは20歳以下の若者にも当てはまと思っています。

確かに法律で決まっているからというのは、これ以上の理はないでしょう。
ただ、それは、それ以上の「解釈」を持たせることはよくない。

喫煙に限らず、懲罰的な社会的制裁が通用するのは、私たちが自ら率先してディストピアを建設しているようにも見えなくもない。

この問題は結構根が深いのではと思っています。



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