宿題が映し出す学校現場の苦悩と現実【朝日新聞「宿題が終わらない」の連載について思うこと】
朝日新聞に掲載された企画記事、「宿題が終わらない」シリーズは、とても良い内容だったと思います。
その総括する記事が出ています。
(プレゼント機能を使っています。8月18日 8:51まで読めます)
本記事は、30歳代の記者がチームを組んでの連載だったようです。比較的若い記者たちであっても驚きを隠せない「宿題の変化」。
宿題の(1)質の変化(2)量の変化(3)宿題によって生じる格差をどうするか
を軸に構成された内容は、塾の現場から学校の宿題を眺めてきた人間にとって、学びの多いものでした。
この記事については、こちらでも扱っています。
塾講師の立場を横において感じることは、
「学校というスクラップ&ビルドが起こらない場所」で起こる必然的な現象という印象が強いなと感じます。
新しい時代の学力観と旧来の学力観が混在している。どちらがいいということが難しい問題であることもあり、結局のところ総括されず、負担だけが生徒に、先生にのしかかかっている。
質の変化は、総合型選抜入試などに親和性が高く、量の変化は一般入試の競争激化に対応したものといえそうです。生徒が自分の将来の受験の選択によって選べればよいのかもしれませんが、結局のところどっちつかずの対応を強いられる生徒たちにとって、負担の増加という点に帰着しており、部活動の激しさも加味される生徒にとっては、学びの崩壊となっている事例も多数あるのだろうと推察しています。
塾講師の立場から感じる点は、
大量の宿題は、学びの選択肢を削いでいることは、間違いないところです。大量の宿題を課す学校(大半が私立高校)の生徒で、学びの楽しさを実感できている人はごく少数です。
また、思考が画一化するデメリットもあるのかなと感じなくもないなと思います。大量の宿題に対応する結果、問題をパターン収集し、インプットした問題からどの問題に近いかを判断してアウトプットするという思考になる生徒が多い。これは、傍から見るとAIの学習であり、これでは、AI時代の学習としてどうなのかと言わざるを得ません。
そこまで宿題が多くない公立トップ高の生徒の個性的な言動を比較するとその違いを実感します。
最新の大学入試は、このようなAI学習的な発想から脱しようとしている現実があるので、大量の宿題を課す学校への対応は、どうなんだろうと疑問を持たざるを得ないところがあります。
学校が独自で問題を解決する権限が与えられていないこともあり、現実への対応を模索する中で、このような過剰負担が「創造」されているのだろうと感じています。
学校の先生も好き好んでこんな大量宿題を出しているとは思っていないので、そうせざるを得ない現実を実感しているところです。
本企画は、続編があるそうなので、期待したいところです。