知らず知らずのうちに「正しい」を探してしまう私たち【正解至上主義という社会的病理はどこからくるのか】
ちょっと前にベストセラーになった『嫌われる勇気』。作者の岸見一郎さんは、日本におけるアドラー心理学の研究者としても知られています。
その岸見さんがよく例として引いておられるのが、
周囲をみてゴミを拾う子どもの存在です。
この場合、「ほめられる」というのは、一つの報酬と見ることができそうですが、別の視点もあるなと感じます。それが、「ゴミを拾う」ことが正しいという「正解」の視点です。
ゴミを拾うことが「正しく」、折角拾うなら、「ほめられたい」という心理は、人間の行動を概形から判断することの難しさを感じます。
(東京の花火大会のゴミ散乱と国際スポーツ大会でゴミを拾うことのギャップもこのあたりの心理も関係しているのかもしれません)
私たちの生活の中で、正解はなにか?という視点は病的なまでに追求しているものであるという現実があるのだろうと常々思っています。
上記の動画は、そのことを考えさせられます。
岡田さんは子どもであっても、もうこの年齢では、
大人が気に入りそうな、たった一つの正しい答え探ってしまうものだ
と指摘します。
改めて考えると、この「正解探し」は、病的なまでに根深いなと感じます。
で書いたように、権力側の視点に立つ人たちが一定数いることは、その「正解」への追及でもある。
不安心理が高ければ高い程、「こう言っておけば間違いない」の例が権力側に視点を固定することなんだろうと思います。
これもその一例でしょう。
研修で行ったはずなのに、写真映えを意識した行動をSNSに投稿する国会議員が批判されることは、当然に理がある。
(ちなみにエッフェル塔は周囲に何もない、ザ・観光地とか。研修に必要だったのでしょうか)
そもそも、この国の大衆は、増税と物価上昇で追いつめられている。余裕なんてないのです。大雨で被災した地域もあります。そんな中での行動なのですから、「どこ向いて仕事してんだよ」という意見はまっとうでもある。
私が、インフルエンサー諸氏の発言に全く関心がなくってしまったのも、このような権力側に視点をプリセットしてしまった硬直性に幻滅したからだろうと思います。
これも一つの正解主義なのだろうと最近思うようになりました。
どうして、私たちはここまで病的に「正解」を追い求めてしまうのか。それが不思議でなりません。自分も知らず知らずのうちに「正解」を追い求めているのだろうと思うと、どこにそのダイナモがあるのだろうかと考えてしまいます。
この問題の厄介ところは、「正解」が論理的でも、合理的でもないことが時として横行することでしょう。
だから「正解」は何かを周囲を見て判断するようになる。私たちの社会はどのような力学で動いているのか、時々わからなくなるものですが、だからこそ「長いもの」が正解として機能するのかもしれませんね。