学びの絶対量を考えない入試に未来はあるのか【急成長している東アジアの教育からの視点】
10年以上前から言われ続けたのが、アジアは成長の拠点となるという説です。
これにITという要素が加味された現在、アジア、とりわけ東アジアの中国、韓国、台湾の経済的成長は、伸びが鈍化した日本とはあまりにも対照的です。
日本は、受験戦争という言葉があるように、教育熱心な国であることは歴史をみても間違いないのかなと思います。江戸時代の寺子屋が民間教育で回っている文化や、明治時代いち早く義務教育制度を確立した点からもよく理解できるところです。戦後でも高卒者が大半だった時代でもサルトルの著作がベストセラーとなるなどの教養熱も高かった。
一方で中国や韓国もまた、受験勉強は厳しく、日本の比ではないとも言われています。
そのような状況で日本は、いつのころからかか、「詰め込み教育はよくない」とか「知識よりも創造」という声が多くなり、大学入試では一般入試の害悪論が支持されることが多くなりました。理解と暗記を混同した言説がそれに拍車をかけたと私は思っています。
それと時期を同じくして、総合型選抜入試の導入が進みました。現場の感覚では、総合型選抜入試を選んだ受験生は、この時点で事実上、「学校での学び」は降りたに等しいと理解しています。
それなりの名の通った大学では、総合型選抜入試と一般入試は併用は不可能で、総合型選抜入試で共通テストを課す大学もありますが、多くの受験生は、総合型選抜入試を「課さない」大学を受けることが大半です。
そのため総合型選抜入試を選択した受験生は、それなりの対策のために、高校のカリキュラムから降りざるを得なくなる。これは、受験生の問題ではなく、入試制度の構造的問題です。
大学は多様性のある学生をとりたいのでしょうが、結果として総合型選抜入試を選択した受験生は、一般入試の受験生とは違う「多様性のある学生」に「擬態」せざるを得ない。
そもそも、日本の教育制度は原則として欧米列強への追いつけ追い越せのキャッチアップ型の「詰め込み教育」なのですから、通常の高校生に制度(教育)によって「個性的・多様性が生まれる余地はない」と思っています。
多様性は、環境要因が大きいと私は思っているので、今の総合型選抜入試は、ほぼ存在しない多様性のある学生を、制度によって「存在しているかのように創造している」側面もあるのではと思っています(もちろん、実際にはおられるとは思いますが、少数派ではないでしょうか)。それでいいのかは、個人的には大変疑問です。
また、理系の場合、中高一貫校でない場合は、高3の2学期でも理科はカリキュラムが未消化であることが現実的です。総合型選抜入試で合格した受験生は、事実上カリキュラムを放棄して大学へ進学することにもなっています。
このような現実がある限り、総合型選抜入試を現状のままでは是とできないと思っています。
それに輪をかけて最近、危機感を感じるのは、中国など東アジアから日本に来ている留学生から日本の大学生の「勉強不足」を指摘する声がSNSで目につくようになったことです。
また、日本の大学生、とりわけ文系の大学生は、入学するとすぐにインターンシップ制度で企業での「見習い奉公」をやっている現実もあり、今の教育制度では、若者の学びの時間の短縮はさらに加速していると感じています。
このまま学びの総量を減らし続けることで、東アジアの「強敵」に太刀打ちできるのか、よく考えないといけないのではと思っています。
確かに創造は大事でしょう。しかし、人間は学びがなければ、サルと同じです。学びという土台があってはじめて創造があると私は思います。
その土台を形成する最適な20歳前後の若者を学びから遠ざけるような動きにはどうしても納得がいきません。
学びの絶対量は必要です。それを制度として担保することは教育の質的安定には欠かせないものだと思います。
総合型選抜入試で評価されているような内容は、20歳を過ぎて、成熟期で鍛錬してもいい内容ではと常々思っています。大学時代の方が自由に学ぶ余地は大きいこともそう思う根拠になっています。
一部の人たちは、東アジア諸国から学ぶことへのアレルギーがあるかもしれませんが、現実は、すでに遅れをとっている。
教育も含め、「先進国」からの学びはあってしかるべきなのかなと思っています。