「SFC的」というパワーワードについて考える【話題の「楓ちゃん」さんのキラキラ人生と上流階級の再生産構造】
兵庫県知事選挙の余波は収まるところを知らないようですね。
斎藤知事にとっては一難去ってまた一難という感じなのでしょうか。
今は、ネットで「楓」と打ち込むと、この方が上位に来ます。
そもそも、この問題となったのは、noteからというのですから、noteは、時代の先端なのかもしれません。
さて、この情報に接したとき、自分が真っ先に感じたのは、「この方は、SFC的だなあ」ということでした。
SFCとは、慶応義塾大学の湘南藤沢キャンパスにある総合政策学部、環境情報学部のことで、
SFC的というのは、目立つ活躍をされているOB、OG方の中に、私の中では、ある共通項目があるように感じられるので、それを指しています。
前にどなたかが、「SFC的だよね」とある人物の事を評しておられたの見て、納得感があり、自分の中で一つの指標として育ったところがあります。
そんな雰囲気がある方を調べてみるとやっぱり、SFCだったというオチは結構あり、この方もそうだったようです。
私の中での「SFC的」というのは、うまく言語化できないのですが、
・トレンドの先端を走っているのだろうけれど、どこか浅い感じがする。
・世渡り上手なんだろうけど、どこか芯となるものが感じられない。
・考えをもって発信されているのだろうけど、どこか思考が感じられない。みたいな感じになります。
こう書いちゃうとディスっているという感じに受け取られるともおもうのですが、私の中では、そうでもないんですよね(多少はあるのは間違いないともおもいますが)。
この「軽佻浮薄」感とも言える「何か」は、今の世の中をサバイバルするために必要な要素も含まれているとも思うのです。
全否定はできないものでもあるという認識なのです。
もちろん、あくまで主観です。繰り返しますが、「個人の感想」です。
SFC的という言葉は使っていません(軽々に使うべきともおもっていませんので)が、SFC的な視点から前に記事を書いています。
SFC的な感じがする方は、みなさん爽やかなんですよね。キラキラしているとも言える。何か眩しいオーラが感じられる。話題の「楓ちゃん」さんもそのど真ん中にいる感じがします。
人によっては、こんな人生がいいという方も多いかもしれません。
裕福なご家庭に生まれ、海外留学し、そしてSFC。
(本キャンパスではないというのは、あの学校のカースト的にはいろいろあるのかもしれませんが)
そのあと、起業して、メディアアドバイザー的なお仕事で、官公庁に食い込み、「石丸旋風とかに関わっちゃってます」みたいなアピール。
上手に世渡りされていることは、その通りなんですが、何とも形容のしようのない「軽さ」。それがどうしても「SFC的」と見えてしまう。
また、いいとこに生まれたら、SFCくらいは、難なくソフトランディングできる人生が上流階級にはある。もともとあの学校はそのような社会的な役割がありますし、それが私立の良さでもある。
ただ、こうもあからさまに「お金で苦労しない人生」の再生産構造があると、私の中にある「マルクス的なもの」「小林多喜二的なもの」が多少なりとも刺激されるところはありますが。
ただ、今の時代、この「SFC的」はとても重要な指標なのかもしれません。
なにせ、SFCと言えば、竹中平蔵先生が長く教鞭を取られていたところでもありますし、
新自由主義に疑問を持つような人間は、せいぜい苦労するんだなというご時世ですから。
あと、誤解のないように申し上げておきますが、私はSFCに悪いイメージはありません。私の中では、SFCを象徴するのは、何度か書いていますが、山口絵里子さんだからです。また、卒業生の方が地道にお仕事されておられる方が大半であることも当然理解しています。
今後、「SFC的」という視点は、世の中を理解するためには必要なキーワードなのだろうと思っています。