イマドキの受験生から見えてくる本当の「学力格差」(2)【総合型選抜入試から学ぶ意欲は外すべきではと思う理由】
塾講師をしていて、現場で感じている「学力格差」について書いています。前回はこちら。
上位層の生徒は、楽しく学ぶことができているのに対して、下位層の生徒は、学ぶことへの適応がうまくできていない現実を書いています。
これは、学ぶことのへの能動性の差であり、広義の学ぶスキルの格差ではないかと考えています。
私はこの「学力格差」は結構大きいのではと考えています。
そんな現場で起きていることで感じることは、この能動的な学びへのアプローチと総合型選抜入試で重視されているとされる学ぶ意欲との違いです。
前々からこの点については、関心があり、前に考えをまとめています。
そもそも総合型選抜入試ではなぜ殊更に学ぶ意欲が強調されるのか。
個人的には、旧AO入試からつながるこの総合型選抜入試がいいものかどうかは、判断が難しいと思っています。
何度か書いていますが、制度の不備が問題を引き起こしている側面があることは事実だからです。しかし、少子化の流れの中で、私立大学が早期の学生確保の手段として使う(使わざるをえない)ことは、必然的な流れであり、総合型選抜入試の制度の向上が現実的な落としどころではと思っています。
ただ、最近は、総合型選抜入試でこの学ぶ意欲を引っ張り出してきたことが、そもそも問題なのではないのだろうかと感じています。
というのも、これまで自分が指導してきた生徒や、塾の現場で見た総合型選抜入試で進学した生徒の中に、この入試が理想とする学生像とする学ぶ意欲なる高いモチベーションをもつ生徒はほとんどいないのではと思うからです。
また、私が塾の現場で感じている「上手に能動的に学ぶ生徒たち」と本質的な相違を感じるのです。
やはり、それは、学ぶ意欲が評価される指標として厳然として存在している以上、不合格になりたくないという心理から、学ぶ意欲があるように振る舞うことが避けられないから無理をしているからではと思っています。
社会問題を意識しているふりをしたり、ボランティアに意味があるように感じているふりをしないと落とされてしまう。コミュニケーションも大事なので、それがよく見えるように振る舞わないといけないと思ってしまう。
行動のモチベーションが、受動であるどころか、恐怖ですらある。マイナスを抱えてモチベーション高めることで、意義を見出すことなど簡単にできそうにはとても思えない。
さらに、そんな生徒たちの振る舞いを否定などできない。だって、落ちたくないから、そんな理想像にアジャストしようとするのは、当然だと思うからです。
もちろん、大学が理想とする学生像を体現できている生徒も多数いることでしょう。しかし、割合としてはできていない生徒、受かるために仕方ないと思っている生徒が多数派ではないかなと思います。
大人であっても人権や環境の問題に関心がある人は少数派ですし、そんな社会環境の下で、総合型選抜入試で理想とする学生像を求めること自体がそもそも無理があるのかなと感じています。
私の現時点での結論は、「上手に能動的に学ぶ生徒たち」は一般入試の方に多くいると思っています。だって、生徒によっては、数学でも国語でも、物理でも化学でも生物でも、歴史でも高校で習う内容で十分面白いと感じられるものであるのは間違いないからでしょう。
それが今の高校生の現状であるならば、学ぶ意欲は、とりあえず横に置き、総合型選抜入試で問うべき内容は、少なくとも人物に付帯する要素は減らしてはいかがかなと思います。
というもの、評価されること、それはつまり正解があることへ適応するように思考が行動が収斂していくことではないのかなと思うからです
なので、大学に入ってから総合型選抜入試出身者がGPAが高いとか言われても、そうだろうなとしか思えない。GPAという答えにアプローチしているからでしょうから。
なので、GPAが高いから優秀?
それもちょっと違うような気がします。
少なくとも現時点での制度では、時代をブレイクスルーするような人材は出てこないのではと思っています。
人間の能動的な行動を評価するという考え方がおかしいのではと思います。
評価されると分かった時点で、それは能動的でなくなる。
能動的の行動の主体は、その人であって初めて能動は成立するからでしょう。
学ぶ意欲を評価するといった時点で、すでに能動的な学ぶ意欲ではなくなるのかなと考えています。
だったら、これは評価項目から外すべきではと考えています。それ以外の要素でも評価する指標は十分見いだせるでしょうし・・・。
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