この国の凋落期に突如として出現する、権力者の「打開策」の恐ろしさ。【エリートがすがるナラティブとはなにか?】
国民民主党の党首、玉木雄一郎代表が行った日本記者クラブでの討論会での発言が世間を騒がせています。
発言は、こちら。
「(国民民主党は、党として)終末期医療の見直しを議論した。その中に、尊厳死も含まれる。この見直しによって、医療費を削減し、若者の社会保障負担を減らし、消費を活性化する」という内容です。
ご本人はさすがにまずいと思われたのか、火消しに躍起になっておられますが、覆水盆に返らずで、政治家のこの手の発言は、覆りません。
私の理解では、新自由主義に思考が染まると、この手の考え方は、経済合理性からの枠から抜け出せなくなり、「どこが悪いの?」となってしまうものだと思っています。
ただ、この高齢者に尊厳死を認めよという議論の恐ろしさは、それだけではないと理解しています。
それは、この国が凋落期になると、出てくるナラティブの「パターン」だと思うからです。
国家という大きい単位だけでなく、地域という小単位、家族という基本単位までに広がる、日本的な共同体に生じる「ある思考」だと思うからです。
それは、「誰かを生贄にすることで、共同体は生き延びることができ」、生贄になる人々の「尊い犠牲」を崇めるという物語です。
この手の話は、『楢山節考』や『おしん』でも描かれています。驚くほど多くの類例があります。
第二次世界大戦での神風特攻隊は、その最たるものでしょう。
レーダーの開発競争に敗れ、敗戦必死となった局面で飛び出した「奇策」。
令和の現代でも、特攻隊の方々について、これを尊い犠牲として崇める人がおられますが、その観点「だけ」で議論することは、十分とは言えないと私は思います。少なくとも、このような合理性を欠く決定を生み出す組織論については、検証されなければならないと私は思います。
このような誰かに犠牲を求める行動は、衰退局面で日本型組織が生み出してしまう、構造的な産物、それが、この「尊い犠牲者」が紡ぐ共同体幻想の維持装置としてのナラティブだと思っています。
玉木雄一郎代表も、高齢者に、自主的に「究極的に医療費のかからない選択」を申し出てもらい、その尊い犠牲によって、最大限の貢献をしてもらう社会がよいのだという価値観があるのでしょう。
特攻隊が志願制だったということと根が同じ。
強制ではないから、生み出される「尊い犠牲」というナラティブ。
これは、本当に恐ろしい。というのも、この国には「空気」という強大な圧力装置が存在しているからです。その圧力は、暴力的な強要を生み出すことが必定だからです。
終末期医療という、究極の個人の問題を、社会的問題とすることで、権力側の都合のいい物語にしてしまう。
このような言葉が、権力に近い人間から発せられることは、非常に危険な兆候だと思っています。
この発言によって、「勇気づけられた」人々の声が大きくなり、あたかも問題は、国民の個人レベルによる「犠牲」でしか解決しないと思い込まされるからです。
高齢者は、長生きしてはいけないという雰囲気すら出かねない。それが、社会に与える影響がどれほど大きいかも考えず、経済合理性だけでロジックを組み立てることの本当の恐ろしさではないかなと思っています。
誰かの犠牲によって、共同体が救われるという考え方は、この国の根底に眠る深い闇だと私は思います。
それがなぜ広く共有される土台があるのかは、私にはわかりませんが、この考えが広く支持されるのは、「犠牲になるのは、自分ではない」という考えをもってしまうからでしょう。
「自分ではない誰かの犠牲」は、大歓迎。そのような考えが根っこにある。
自分でない誰かであれば、不条理なことの強要に無頓着となる。
それは、ひとえに人権後進国であることの証明でもあると私は思うのですが、どうして人権意識が芽生えないのかは、考えるべきテーマではと思います。
神風特攻隊の犠牲の後にあったものは、日本各地の大空襲と2つの原子爆弾の投下でした。
誰かの犠牲によって、共同体が救われることはない。
なぜなら、私たちは、そのような神話の世界に生きているのではないからだと私は思います。
このナラティブの恐ろしさは、そのような合理的な思考を奪うこともあるのではとも思っています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?