小泉進次郎さんは「清家一郎」なのか。【『笑うマトリョーシカ』の主人公と重なる人物像。未知数な政治家だが、それは・・・プラス?マイナス?】
TBS系列で放送されていたドラマ『笑うマトリョーシカ』。櫻井翔さん演じる政治家「清家一郎」は、誰かに操られているのではないかという謎を軸に展開する政治ミステリーでもありました。
原作本については、こちらで感想を書いています。
洋の東西を問わず、政治家が誰かの操り人形ではないのかという問題は古くて新しい問題です。
消費税減税が大事だと思う私には、与野党を問わず、「財務省の操り人形」である政治家がごまんといるいう視点になるのですが、それはともかく、党内の基盤が弱い若手政治家は、どうしても「誰かの言い分を聞かざるを得ない」存在となってしまうものでしょう。
国民に人気の高い小泉進次郎さんとて例外ではない現実があるのかなと思います。
その意味で、小泉さんに誰かの代弁者ではないかという「疑念」があるのは、やむを得ないのかなと思っています。
もちろん、そうである確たる「証拠」などないものの、ずいぶん前にマツコ・デラックスさんが、↓のような評価をされていたのが強く印象に残っています。
その背景にあるのが、進次郎「節」とも言えるトートロジー的なポエミーな発言が彼のキャラクター形成に大きく関与していたからだと思っています。
これが知性の不足を証明するものなのか、正体を掴ませない策略なのか、私自身、判断が難しいなとも思っています。
そのように安易にキャラクターを判断させないことになること自体、小泉進次郎サイドとしては、戦略として成功しているのかもしれません。
一般に政治家というのは、「政策を掲げ、それを世に問う」というのが当たり前だという認識がありますが、昨今の政治家はそれをあえて「しない」ことのメリットを感じているのではと思っています。
東京都知事選挙で話題になった石丸伸二さんの戦略は、「政策を語らない」ものであったという指摘は多く、これはプラスの評価になったという説があります。
フワフワとした存在として世間を煙に巻き、真意を悟らせず、政策もあいまいにして、メディアの露出を増やし、好感度を維持してきたという印象のある小泉進次郎さんのこれまでの戦略は、正しいものだったのではと感じます。
だから・・・
誰かの操り人形なんじゃないの?
というマツコ・デラックスさんの指摘は、妙な説得力を持つのも事実なのかなと思うのです。
その意味では、アメリカ大統領選挙においても、トランプ候補よりも、ハリス候補の方が、軍産複合体の代理人という側面が濃いという指摘があることについても気になるところでもあります。
世界の潮流として、国家のリーダーは、自分の言葉で政策を語るなどとっくの昔にありえない存在になっているのかもしれません。
だからこそ、私は、AOC(アレクサンドリア・オカシオ=コルテス)さんがどうしても気になるのでしょう。日本では、れいわ新選組の山本太郎さんがそうなります。自分の言葉で政策を語るからです。
その意味では、小泉進次郎さんを軸に進むであろう自民党総裁選挙は、政治家像という点でも文字通り「未来を占う」選挙なのかもしれません。