生徒会の在り方とは?
学校における民主主義の花形は、やはり生徒会活動であり、一方でこれが唯一である。ほとんどの児童生徒には「花形」という言葉にさえ、疑問を覚えるだろう。なぜならば、生徒会の民主主義はもはや「形式的」にすぎず『続いていればいい』『とにかくやればいい』という、実に舐め切った態度が蔓延しているからである。
どうしてこうなってしまったのだろうか。自らの生徒会役員時代を振り返りながら、その問題点を洗い出し、解決策を探ってみることとしたい。
1.学問への批判
そもそも、生徒会は次のような関係図によって政策を実行できている。
生徒会執行部を運営する人物もまた、一生徒であり学校-生徒における教師が生徒に及ぼす影響は甚大である。これまでの学術研究はこの相互作用しか見ず、生徒会に関する論文を見ても「生徒会執行部─生徒」の関係性はごく一部に過ぎない。
多くは「教育学」の視座から研究がされ、この偏りが教員への負担を増大させているのかもしれないと疑義を持つ。むしろ、生徒会は「社会学」としての視座をより強化し、生徒会と学校側の相互作用にまなざしを向けなければならない。さらに、生徒会執行部内部においても、生徒間や生徒・教師間で歪な権力関係が存在しており、この政治力学を通じて生徒や学校に対していかなる影響を及ぼしているかという「政治学」としての視座も忘れてはならないだろう。
2.生徒会への批判と改善策─我が母校を事例に
2-1. 我が母校の生徒会における関係図と現状
筆者の学校では、次のような組織図で生徒会が組織されていた。
上の図で書き足らなかった部分があるので補足すると、生徒→各委員会において、生徒は各学級から委員を選出する。
私の学校の場合、中高一貫校なので環境自体が非常に特殊であるが、さらに特殊な事情があるのでここで触れておく。私の学校は高校において、中高一貫とは別に、高校受験から入ってきた人々がいる。これは別途、生徒会が組織されており、現在では名目上は合併され、それに伴い生徒会の職位も変更されている。だが実質的には、選挙は別で実施されているし、委員会や生徒議会も同様である。生徒会室も島で分かれている。校則は、中学は中学で適用されるが、高校は中高一貫とそれ以外のコースに関わりなく一律に適用されている。
学校側でも、教師の入れ替えで人事交流はあるものの、部署は別組織となっている。例えば、高校生徒指導部において、中高一貫は問題発生時、内部で対処するが、重大な事案が発生した場合には高校の生徒指導部の先生が参加する方法を取っている。また、中高一貫の生徒指導部は実質的に中学の生徒指導に関わっている。
2-2. 問題点
まず、「生徒→学級委員長・副委員長」の関係図であるが、学級委員長は代議員として、生徒議会において意見を主張できる権限を有していることを踏まえれば、生徒は学級委員長を選出する際には、生徒の意見を取りまとめるだけの器がある人物でなければならない。しかし、現実では「クラスの顔」としての存在でしかない。なぜ、生徒は学級委員長を選出するときに、意見をまとめる役割としての要素を落としているのだろうか。言うまでもなく、生徒が意見しても実現されることがない、無気力だからだ。どうすれば、学級委員長の使命を明確化し実感も伴うことが出来るのだろうか。
次に「生徒→生徒会執行部」の関係であるが、生徒が生徒会執行部を選出するにも、そもそも立候補者が少なく信任投票となっている。また、執行部を補佐する組織から新たに役員にスカウトする流れとなっており、選挙管理委員会は、「一応」得票数を数えるに過ぎない。また、どの割合を越えた時点で信任とするかの基準もない。もともと生徒会の人材不足もあり、得票数を明らかにすることなく信任とすることができる。選挙における過程をより透明化するにはどうすればよいのだろうか。
生徒会執行部内部では、歪な権力関係が存在していた。まず地位と権力者が一致することはまずなく、権力者が役員から外れても黒幕として生徒会室に居座る。その権力者は神を数える「柱」で呼ばれ、神格化される。したがって絶対服従だ。生徒会執行部は一種のカルト宗教であった。人材は減少傾向にあるにもかかわらず、仕事量は昔と何ら変わることなく生徒でありながら、毎日ブラック労働であった。行事があれば下校最終時刻を越えて、おっそりと帰らざるを得なかった。(無論、顧問のお墨付き)生徒会内部がこのようなブラック化・カルト宗教化したのはなぜだろうか。どうすればそれを脱却することが出来るのだろうか。(なお、私が生徒会を卒業後、かなり改善され、神格化されなくなったようです)
「生徒会執行部→各委員会」においては、生徒会執行部が下部組織に委員会がある意識は全くない。それゆえに「委員会」側も生徒会執行部に対する意識はない。これにより「委員会」は名ばかりとなり、実際に委員会が開催されるのは各学期に2回から3回開催できれば良い方だ。その日程決定も教師が決定しているため、非常に形式的になっている。それでは学級が誰を委員に充てるかも形式的になる。どうすれば委員会を活性化できるのだろうか。
最後に生徒議会について。一連の問題点から、少なくとも学級委員長や各委員会から議案が提出されることはなく、実質的に生徒会執行部が行っている。しかし、その生徒会執行部も先生に丸め込まれて、「生徒主体」は名ばかりである。本来、「生徒主体」は口に出すほどでもないレベルに当たり前となっていなければならない。しかし、いまだに口に出すようではそれは「生徒主体」となっていないに等しい。生徒議会が「ただの報告会」でなく、しっかりとした「議会」とするためにはどうすればよいのだろうか。
そして学校。学校が生徒議会への介入は少ないものの、「各委員会」や「生徒会執行部」への介入はすさまじい。勿論、放任するのも問題がある。実際に教師の放任主義と生徒のポピュリズムで、学校崩壊を招いた事例がある。下の動画を見てほしい。
学校が最小限の介入にしつつ、コントロールをとれるようにするにはどうすればよいのだろうか。
そして、わが校ならではの問題。生徒会は見た目は一つなのに、カリキュラムが異なっていたり、校則の適用などで複雑怪奇になっていることで、校則改正の方法を役員は知らない。それはおろか、先生と生徒の対話がより困難となり、それが生徒間の対話を困難にさせている。どうすればこの問題を解決できるのだろうか。
2-3. 解決策
まず、生徒が生徒会に所属している意識を持つことが大きなカギである。そのためには、政治的関与・さらには政治的有効性感覚を持てるような流れを確立するしかないだろう。
顧問が積極的に校則を破ったり、丸め込んで生徒の無力感を育てるようなことは絶対に有ってはならない。その上で、生徒会執行部が健全なガバナンスができなければ、意見を反映させるのは困難である。つまり、権力者が権力にしがみつくのではなく、またOBに忖度することもなく、役員の意見を集約し学校との協議を重ねて、学校改善のために意見を反映させていくプロセスが重要だ。権力者を神格化しないようにするには、その権力者を育ててきたOBが卒業後も世話しないようにすることで、後ろ盾を失くす必要がある。また、暇になったら仕事を増やすと言った「自己満足型」体質をやめ、各役員に心の余裕を持たせ、一方で権力者も批判を受け止め改善する姿勢を持つことが肝要だ。
また、初期は座談会を開くなどして直接意見を取り、最終的に学級委員長にその任務を任せることで、生徒への発言権を強化していかねばならない。しかし、このままでは「何をまとめるのか」という話になるため、生徒議会を開催する前に、執行部は時間に余裕をもって各委員会や学級委員長にテーマを予め公開し、議論を喚起するのが望ましい。議論する際は、一人一人がみんなの前で話すよりも、グループに分けて情報を共有し、各役員はその聞き役となることで、役員は規則を遵守できる。そして、役員がそれを発表することで、問題を洗い出すことが出来るだろう。その解決策を次の題目とすることで、議論を連続的にすることができる。
これらの施策で、少なくとも委員会や学級委員長の使命を明確化しその実感をもたらす。すなわち、選出時の過程がより深く検討されたものとなるだろう。
先に触れたが、生徒会がブラック化しないようするには、「仕事を減らし」、「議論する時間と心の余裕」を持てる環境整備しかない。そのためには、生徒が「何をしなければならないのか」を明らかにするために、少しずつ生徒から手を放すことが求められる。学校側も「最低限、これは必要だ」というものを線引きすることで、学校側の負担も減らせるはずである。さらに、各教師がどの部署(例えば、生徒指導部など)をはじめに明らかにすることで、より教師との連携を緊密にすることが出来る可能性が高い。
2-4. 解決策における残った課題点
解決策で残る課題点としては、日程を組むのが大変であり、その背景には、多くの生徒が習い事をしていることにある。また、教師も近年のブラック労働で考え事や意見したりするほどの余裕はない。そのため、「時間の確保」や「心の余裕さ」において非常に苦心する可能性がある。この点、学校側や生徒会執行部がその因果関係にまなざしを向けて、習い事のバランスを取りつつどう改善するべきかが大きな問題となる。
そして、生徒会執行部や教師の労働問題に共通する「過労」についても、「何の仕事を減らすか」が大きな問題となる。この際、気を付けるべきは、その仕事をなくすことでのメリットとデメリットを明確化し、その比較衡量が大事である。人材量に対応した仕事量に柔軟に変化できるような様式に帰ることが望まれる。
生徒会と一言で言っても、多くの階層や組織が複合的に絡み合っている。要素に分解し、その関係性にについて一つ一つ問い直していくことが、学校改善における大きな前進ではないだろうか。