見出し画像

夏と苦悶と、子供って不確定要素よ?という話

娘をお迎えに行った際、公文教室の前で激怒するお母さんらしき女性と、ひたすらに謝る女の子の姿を見て、心臓がバクバクした。頭の裏側にこびりついている、二年前の私と娘の姿が、じりじりあぶりだされてくるのを感じた。

あれは幼稚園に入って最初の夏休み。
有意義に過ごしてあげなければならないという気持ちと、下の子が生まれたばかりで暑さとコロナが渦巻く外界には出ていかれないという制限とで、娘には幼児用ワークを買っていた。もちろん、工作や、お絵かきもしたけれど、どれもこれも、楽しく遊ぶというよりは、「有意義な時間」を過ごすために用意したものだった。

ワークは点図形という、見本と同じように点と点をつなぐ内容だったと思う。初めての内容に、大人の私から見たら一見容易なものも、娘はなかなか手がすすまなかった。

手前みそだが、娘は利口だった。早生まれだけど、1歳の時から4月5月生まれの子たちに負けないくらいお話が上手で、保育園時代から先生にも褒められていた。

それなのに、なんで「こんなこと」ができないのかと、やっているうちに、だんだん自分がイライラしてくるのが分かった。3歳だって、左の見本と、自分の書いた右の線で結んだイラストの違いくらいわかるだろう。本気でそう思って、目の前の娘に憤っていたのだから、今思えば当時の私は本当に愚かである。

始めは辛うじて、イライラしていることが娘に伝わらないようにぐっとこらえていたが(でも、きっと、娘は気づいていたのだと思う)、次第に「~~~じゃないの?!」「わかんないの?!!ここが違うでしょ?!」と語気が強くなっていくのが分かった。ああ、今思い出してもリアルに目の前に浮かぶ、娘の口を一文字にした顔。最初はおちゃらけて、ふざけて、「そんなこといったって、わかんないよ~」とニヤニヤしていた。それも、密室の中で母親という絶対的存在を目の前にして、恐怖と悲しみを隠すために、あえてふざけるしかなかったのだと思う。

次の瞬間、突然、ほろほろと涙をこぼし始めた。そこで初めて私は我に返り、なんてひどい時間を過ごしてしまったんだろうと後悔した。いや、我に返ったという表現はちょっと違うかもしれない。それまでカーッとなっていた怒りが、突如一気に悲しみにスイッチングする、あの情緒不安定な感覚。気づけば私も涙をこらえていた。なんてちっぽけなことに焦点を当てて、娘を傷つけたんだろう。「コロナ禍の3歳児育児with生まれたての下の子」は、字面からも想像が容易なほど常に孤立していたし、ストレスフルだったと言ってしまえばそれまでだけれど、娘の3歳の夏は戻ってこない。娘への申し訳なさと、自分に対する嫌気が、さらに自分を追い詰めて、その後私は結局、体調を崩した。

それから数か月して、友人から、「子供の公文の宿題を見てあげている時間が苦痛だ。正気とは思えない言葉を浴びせてしまいそうになる。うちの子は勉強ができないんだと思う。こんな経験はあるか?」という相談を受けた。そこでも私はこの夏のことを思い出し、自分の苦すぎる経験と、その時の思いを友人に話した。

今は、わが娘もだいぶ大きくなり、公文のお世話になっている。
そしてここにきて、冒頭の場面に出くわして、いよいよこの記事を書いている。

そこまでして、公文やる必要ある?

うまく言えないけれど、ひとまずこれが、思うことである。
そこまでして、先取りする?「幼児教育」する??
それは、何を目指して?

子供は「不確定の塊」だ。
子供を持つと不確定要素が増えて、人生の選択を思わぬポイントで迫られて、当然なことに子供を持たない人生に比べたら「どうなるか分からないこと」が増える。ハードモードである。その点で、本当に、世の中のお母さんたち(もちろんお父さんも)は本当によくやっていると思う。
そして、それらハードモードのすべてを凌駕するかわいさがある(今のところ)。思いつきもしない行動をやってのけるし、嘘でしょ?!と思うようなトライをして(これは主に息子だが)、なんなら平気でけがをしに行く。子供たちの命を日々守るために必死だし、けがをしないように、風邪をひかせないように、四六時中アンテナを張り、ただでさえ領域がひっ迫している脳内メモリは、彼女らの「なんで」「どうして」にまっとうな回答をするために使用され、枯渇する。そしてメモリが枯渇した状態で、イヤイヤ期の息子の言いなりになるのだ。

それを言っちゃあおしめぇよう、という程度には極端に振り切った思想なのだけど、一度、二年前の夏のような失敗をした私が思うのは、「結局なところ子育ては今を楽しく生きられたら最高」ということだ。
「今を楽しく生きる」を数年後も実現できるように、nowな今を楽しみつつ、楽しさの種をまく。これが私のモットーとなった。

きれいごとばかりをいう必要はない。学びは必要だ。
だけど、今、まだ小学校に入るか入らないかの小さい子供にとげとげしい言葉をかけながら、自分も苦しい思いをしてまで、先取するメリットってなんだろうかと、一度考えてほしい(と、日々自分に言い聞かせている)。

先述のとおり、娘は公文のお世話になっている。「面倒と思うこともあるけど、楽しい」らしい。なぜ楽しいかというと、「できなかったことができるようになるのが嬉しい」「意味が分かるのが楽しい」と申していて、これはまさに進研〇ミの漫画にあるような月並みな成功エピソードなんだけど、やっぱり「楽しい」は幼児教育の本質なんだなって思う。

そして、きっと彼女ら、彼らも遅かれ早かれ立ち向かうことになる「受験」のための勉強で、きっと苦しみを味わうことになるんだろう。でも、その時にはきっと、「踏ん張る力」と、「志望校への自分の想い」と、「将来への期待」という、自分自身の力がついているはず。

そして、誤解なきように言うと、公文はいい。
当然、良いものだからみんな知っているのだと思うし、親がわが子の最初の習い事として候補のトップ5に入る(私調べ)だけはある。公文がどういう背景のもと作られ、どういうものなのか、公文とはなんぞや、というのを、一応この本を読んで自分なりに理解したうえで、我が家の娘も始めてみることにした。

なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?(祥伝社新書) | おおたとしまさ |本 | 通販 | Amazon

とはいえ、公文はクセが強い。そのクセが良くも悪くも公文の特徴であり、実際に通わせていない親までもが「合う合わないがあるらしいわよ」と井戸端会議でつぶやきまくる所以だと理解している。

教室の方針にもよるが、進むか、立ち止まるかの2択だ(そりゃそうだ)。立ち止まりたくなければ進むしかない。遠慮なしに先取る。先取らないものに残された道は、ひたすら繰り返すというなかなか飽きがくるモードである。というのも、「ひらがな!漢字!ハイ読解!!」「はい数字!ひたすら計算!!!」というもはや訓練に近い手法だからだと思う(この訓練要素は、国語よりも算数の方が色濃いと思う)。

言ってしまえば、似たようなドリルを買って家で進めてもいいんじゃないか?とすら思うけど、公文の魅力として「週二回教室でこなせる」のと、「全国の同学年のなかで自分の立ち位置が分かる(なんならしょっちゅう症状がもらえる)」ことが、モチベーションにつながる節はある。

ただし個人的な意見としては、未就学児が公文をやるなら、「親が伴走」できることが条件だと思う(なぜかというと、わが娘も自走できるようになった今でも、国語を確認すると書き順が誤っていたりする)。伴走をする余裕がないなら、「そこまでして公文やる必要ないんじゃない?」と思う。習慣と化すんでね。間違ったまま習慣化しちゃうと、直すのがこれまた大変。問題に出てくる単語を見て、「〇〇ってなあに?」とか意味を問いてきたり、「休むって漢字は、人が木の下で休んでる絵がもとになってるんだよ」とか、普段の会話ではなかなか出てこないようなネタを元に話がはずんだりする。私は昔から子供との雑談が苦手なのだけど(何言ってんのって感じなんだけど、本当にそうなんです…)、こういう小ネタを元に親子楽しめることこそ、公文の時間を共に過ごす醍醐味だなと実感している。

私のような失敗をした親の元でも、子供は立派に成長してくれていて、良い習慣をつけられることができた。なんとなく、この記録をつけておきたくなったので、ここに置いておこうと思う。



いいなと思ったら応援しよう!