見出し画像

ガイダンスに従順に従うこと 霊的訓練における権威の問題

2024年5月12〜13日の勉強会でのテーマは、私にとって非常に大切だった。

感じたことや学んだことを、今後の自分のためにも丁寧に書き留めておきたい。

なお、このnoteは勉強会内容のまとめではなく、勉強会で学んだこと及びももこの現在理解できる範疇での話になります。

もし読まれる方がいたら、これは私の現段階での認識である、ということをお含みおきください🙏

🌈✨


■Jesusは私の信念を用いて癒やしへと導く

私はこれまで、ヒエラルキーや権威(authority)について、暴力性や軍隊的な容赦のなさとセットで認識してきたので、ここへきてJesusとの関係に「権威の問題」が浮き上がってきたことに、当然ながら抵抗が上がった。

奥多摩のキャンプの際に感じていた歯の根が合わない寒さは、おそらく私が権威の問題(そしてその奥の神の愛)にこれから突っ込んでいくことを無意識に予期してのことではないかと感じている。

最近では、兄弟との間で現れる投影のメインテーマは、突き詰めると上下関係(ヒエラルキー)に関することばかり。

普段は忘れていても、ふとした瞬間に獰猛なそれが現れ、投影相手に対する殺意として浮上する。

究極的には、それは神(創造主)を抹殺して自分が神に成り代わろうとする欲求を鋳型とする投影で、「私より上に立つな」と自我は神の子に対して明確な殺意を持っている。

「自分より上(あるいは下)」というのは、ワンネスの中では存在しないので、ヒエラルキーという概念を創造したのは神ではなく自我で

私は分離の夢を見ているからこそ、序列の差(ヒエラルキー)というものを経験する。

人間関係における序列だけではなく、個人的な「好み」というのもヒエラルキーの一種で、好きなもの・嫌いなものが存在すること自体が分離の信念の現れ。
世界の在り様は、ヒエラルキーそのものと言ってもよい。

Jesusは、私のそういった、ヒエラルキー・序列の差という信念体系をぶち壊すのではなく、「それを使って」心を解きほぐそうとしてくれる。

そのために、Jesusはこの様に語りかける。

「私たちは100%平等です。
でも時間と空間の中の経験においては、私がお兄ちゃんであり先輩です。
だから、私に尊敬をもって服従してください。
私を先輩と認識し、私の声に従順に従うことは、時間の経験の中ではあなたにとって非常に助けになります」と。

これに関するテキストの該当箇所はこちら(太字は個人的にインスピレーションを感じた箇所)。

兄は、より多くの経験をしてきたので尊敬を受ける資格があり、より大きな叡智があるので、服従を求める資格がある。彼はまた兄弟であるから愛される資格もあり、もし彼が献身的であるなら、献身を受ける資格もある。あなたからの献身を受ける資格を私にもたらすのは、私自身の献身のみである。
私に身についていることで、あなたにも達成できないことは何もない。私がもっているもので、神から生じていないものは何もない。今の私とあなたの違いは、私にはそれ以外には何もないという点である。このことが、あなたにおいてはいまだ可能性でしかない状態に、私を置いている。
「われに由らでは誰にても父のみもとにいたる者なし」とは、私が何らかの形であなたから分離している、もしくは異なる、という意味ではない。時間の中ではそういう意味になるが、時間は実際には存在しない。この言葉は横軸よりも縦軸の観点で捉えたほうが意味がある。あなたは私の下に立ち、私は神の下に立つ。「上昇する」過程において、私はあなたより高い位置に居るが、その理由は、私が居なければ神と人との距離はあまりにも大きすぎて、あなただけでは超えていけないからである。私は一方ではあなたの兄として、もう一方では神の子として、その距離を埋める。兄弟たちへの私の献身が、一なる子を任される立場に私を置いた。そして私はそれを共有しているので、私がそれを完成させる。これは、「われと父とはひとつなり」という言葉と矛盾するように見えるかもしれないが、父のほうが大いなる存在であることを認めて、この言葉には「われ」と「父」という二つの部分が含まれている。

(奇跡講座上巻 一章 Ⅱ 啓示・時間・奇跡 3-4│
中央アート出版)



■権威と服従

権威とか服従という言葉は、自我のフィルターを通して聞くと、不自由と制限と暴力と抑圧を私に連想させる。
そして、これら(不自由・制限・暴力・抑圧)は聖霊の属性とは明らかに異なる要素だから、権威とか服従という言葉が聖霊に紐づけられるということ自体を否定したくなる。

私の好きな言葉は「自由」であり、奇跡講座をやってる理由の一つは、【決して束縛されない永遠の自由を経験するため】でもある。

でも、私の中には「主よ、私をあなたのお望みのままになさってください」という神への恭順を願う強烈な欲望が、自由を求める気持ちと同じくらい強く存在している。

私が最も落ち込んで、どうにもならなくなったときに心の底から出てくる祈りは「もう、あなたのお好きになさってください」だと思う。

あなたがくださるものに私の価値判断のラベルを付けず、ありのままにありがたくいただけるよう、私を訓練してください。
という祈りが、去年からちょこちょこ顔を出す。だから、私の心の底には「私の正しさを放棄し、神に完全に所有されたい」という願いがあるのだと思う。


私は、「私の考え」がないとき、「私の正しさ」を手放したとき、完敗したとき、最も自由を感じる。

神に依存し、神に支配されるということは
私は神から離れることは出来なかった(無罪)ということ、つまり私はまったく自由ってことである。

だから、「自由になりたい」と「神に支配されたい」の間には、実は全く矛盾はなく、本質的には同じだという直観がある。

我が家の寝室に掛かっている絵

ところで、霊的なコミュニティにおいて、「指導者」「兄弟」という存在はとてつもなく大きな役割を果たす。

神と一対一の関係性のみを頼りに悟る人はとても稀だし、私は凡人なので、すでに霊的な訓練体系がある程度整えられている道は、後ろからついていく身としては言葉にならないほどありがたい。
(獣道を徒歩で進むのと、舗装済み高速道路を観光バスで進むくらい違う気がする。)

コミュニティにおいては、霊的により経験を積んだ兄弟が指示を出すことに、従順に従うことが求められることがある。その人が黒と言えば、白いものも黒い、みたいに。

指導を受ける立場の者は、指導者の正しさや間違いを指摘・判断する立場にない(自分にはその能力がないと、まず負けを認める必要がある)。

それは、権威者の頭を飛び越えて「私はあなたよりわかっている」「私のやり方はあなたより正しい」という主張であり、これはそのまま神への反論となってしまう。

「私のアタマ」「私の経験」は、真理に触れるためには何の役にも立たない、私は何一つわからないのだから、という諦めが、かなり肝心だと思う。
知的理解と人間的努力の限界に到達し、「もはや何もわかりません」という降参が起きたときにしか、開かない扉がある。
(これは、【キャラとしての私のプライド】を維持していたいという願望を放棄することに繋がる諦めのように感じる。)

「もうこれ以上は無理だ、完全なる敗北だ」と思い知らされたのです。悟りなど永遠の夢だったと負けを認めたのでした。そう思った途端、何かが大きく開かれました。

アジャシャンティ自伝動画  18:07~


【従順であること】の要点は、「相手が言動(形態)のレベルで正しいかどうか」に依らず、「神のシンボルとして自分の眼の前に用意された相手に、どれだけ心を開いて完敗するか」ということなのだと思う。

↑良寛様には、周囲の人から馬鹿にされるエピソードがとてもたくさんある。彼は子どもたちのいたずらや彼を馬鹿にする相手に対してさえ従順である。プライドなさすぎて川に落とされたり生き埋めにされそうになったりしているけど、全然こたえてない。



相手を特別視し、偶像化して依存するという「(あの人は私より〇〇だから従う、という)外側の知覚に左右される条件付け」を前提とした人間的な従順ではなく、具体的な相手というシンボルを通して、徹底的に「自分と神との信頼関係」としてとらえ続け、焦点を当て続けることが、神の前に真に従順であることなのかもしれん。

指導者(兄弟)という具体的なシンボルの奥に神を見て、肉体のレベルで「神に従うこと」を徹底する訓練として、「相手に従う」「完敗する」人間関係が与えられる
というのが、現時点においての私の感覚になる。


だから、ここで相手がどんなに自分にとって納得しがたいことを指示したり、まったく支離滅裂なことを主張したとしても、「自分の経験上の正しさを言い募るために異論を差し挟むこと」は、自身の目醒めのプロセスを遅延させることになる。
それは、神に勝負を挑むことと同じだからだ。私は負けねばならない。私は自分の正しさを捨てなければならない。「私にはわからない」と認めなければならない。私は兄弟に負けることを通して、神に徹底して負けねばならない。

「私は何もわからない」「私は何も知らない」に開かれている状態にこそ、聖霊の叡智が流れ込む。
(奇跡講座テキスト第30章 決断のためのルール「今日私は自分一人では何も決断しない」そして「私は自分が間違っていたことを望む」は「『わからない』ことに開く」ことを通して聖霊を選ぶ・自分が聖霊を選ぶことで聖霊が働くことを教えている箇所と言える。)


■実践の際の助けとなること


異論や反抗心が湧いたとき、それを罪として隠したり抑圧するのではなく
正直に見つめて「こういう気持ちがある」というのが出るのを自分に許し、
「こういう感情や思考がわいているが、私が間違っていることを望む」と
その都度聖霊に渡し続ける。

この地道で丁寧なプロセスを踏むことが、私にとってやさしい(そして加速を助ける)道のりになるだろうと思う。
そりゃあ常に良寛様みたいに癒やされた知覚でいられるのがうれしいけれど、愛ではない知覚を癒やす浄化が必要な身なのだから、一歩ずつ聖霊に捧げ、修正してもらいたい。
 

このプロセスを曖昧にした場合、権威(兄弟)に対して
「『これ(指示されたこと・相手)が正しいのだから』という結論の下に、本音や感情を抑圧し、実際には被害者意識と不信が募っていく」という展開になりかねない。
それはマインドトレーニングというより、自分自身への精神的な虐待になってしまう。

私はかつて破壊的カルトと定義される宗教団体に、親子で十年以上所属していたが、その教団において「権威者の発言(正しいこと)」に従わないことは不従順の罪として集会で断罪された。そのため、本音の不満や感情は押し殺して「とにかく正しいことをやらねばならぬ、従わねばならぬ」という上下関係による暴力性が生じていた。

「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことについて感謝しなさい」
という聖句を、自分の感情に嘘をつき、本音を封殺することにより、実践することに成功した結果、私は不眠症とPTSDと憎悪に彩られた、暗黒の子供時代を送ることになった。

感情を抑圧し、本音を抹殺することが、私にとってどんなに悲惨な結果を招くのか、霊的訓練の初期の段階で学べたことはとても良い経験だった。
これまで、この経験は私にとってトラウマでしかなかったけれど、このnoteをつけているうちに、自分の目醒めのためにこの経験は必須だったように思いつつある。

霊的な学びの実践で、【自分の感じていることに正直であること】は、被害者意識(私の正しさ)を隠し持ち続けないためにも、必須の要件だと思う。

感情に納得が起きていないのに〈正しい理論〉で蓋をして無理やり従おうとしていると、聖霊への信頼感が育たない。

親子関係において、正しさだけを求め、正直に自分の気持ちを表現することを許してくれない親に対して、100%の愛だけを感じ受け取ることの出来る子は多分ほとんどいない。

親の本音がどんなに子どもの為を思っていて、その正しさが道義的にも妥当な判断であったとしても
「言うことを聞かない悪い子の私はダメなんだ」
「良い子でないとどうせ愛されないんでしょ」
みたいな葛藤と不信が起きる。

新約聖書のJesusによる放蕩息子の例え話は「自分がどんなにアホな子で人生大失敗しても、父ちゃんだけは自分を絶対に見捨てない。スッテンテンになり豚のエサを食いたいくらい落ちぶれた自分でも、お家に帰ったら父ちゃんは『お前は私の宝物だよ』と走り寄ってチュッチュして抱きしめて、最高に愛してくれるんや!」という話であり

私が神に対してここまで信頼し心を預けきれたら、「Put God first(神の国を第一にする)」は「正しいからやらねばならない教え」ではなくなる。
むしろ「父ちゃん(神)は私のことが大好きなんだから、『神の国を第一にすること』は私にとって絶対いいことに違いない。それならやりたい」というだけのハッピーな話になる。
親(神)に対する信頼の有無で、子(私)のモチベーションはここまで変わる。
ここに悲痛な覚悟はないし、評価される立派な者であろうみたいな意気込みもない。

だから私に今必要なのは、とにかく信頼である。

😇


さいわい、私が今学んでいる真我なるハートは、私がかつて属していた教団とはそもそもの目的が違うし、ラファエルものり子さんも私に対して自身が霊的指導者・上位存在として従うように強要してきたりは全くしない。

ただ、私の心に、彼らを私の霊的道程におけるメンターであると信じている部分があるという意味において、私は彼らを権威者と位置付けている。
これは単に自主的な感覚である。

彼女たちは、本音の感情をスピークアップする場をいつでも提供し、正直であることを推奨してくれる。私には自由が保証されていて、兄弟を通して、聖霊との信頼関係を築く機会が与えられている。

しかし、自我は「良い学習者として評価される良い子」であるために本音を隠すことにより、この関係性を被害者意識を鬱積させるために使うことができる。

だから、私は用心して正直であり続ける必要がある。ダメな自分を「その知覚が間違っていたとわからせてもらうために」さらけ出す勇気がいる。

条件付きでしか神から愛されないという思い込みを、兄弟たちに敗北することによって、修正を受け入れさせてくださいと祈るしかない。


■敗北の道

目覚めの道は、おそらく「敗北の道」だと思う。

神に負けるために、神のシンボルである兄弟たちに、状況に、完膚なきまでに負け続けなくてはならない。

自己概念を保てるプライドを、〈私の正しさ〉を、ひとつでも保持していてはならない。

それを握ったままで、天国には入れない。


■愛されてた、私が間違ってた

ここまで書いて、
私はあの幼少から高校生まで続いたカルトでの体験を、愛のカリキュラムの一部として、私の人生に聖霊が組み込んでくださっていたという実感に泣いている。

私は、あの頃、Jesusに裏切られたと思っていた。

それは間違いだった。
Jesusは私を裏切ってなかった。


私は
愛されていた。

でも、そのご計画は
私の理解の範疇になかった。


「あんなに辛かったんだ」というアイデンティティみたいに握ってきた苦しみの記憶が
実はあなたの愛だったと
このnoteを記録したことでわかった

体に力が入らない


Jesus
あなたに信頼させてください。
あなたが信頼に足る相手であることを
わからせてください。

もっともっともっと
わからせてください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?