見出し画像

「しょうもない」と子どもは喜ぶ話

子どもにものを教えたり、関わったりする仕事をしている私だが、ふとしたときに感じることがある。

大人から見てみれば「しょうもない」ことでも、子どもからしてみれば「印象的」なことになるらしい。しかも、よく覚えているというおまけつき。

例えば、「おおきなかぶ」を題材とした言葉の勉強する場面を考えてみる。

極論、題材に関する内容が書かれたもの(例えば、教科書)、ノート、鉛筆があれば、聞く・話す・読む・書くの勉強はできる。必要なものは揃うし、他は何もいらない。

しかし実際は、その3つの道具だけで勉強をしてみると、ほとんどの子どもは注意が別のところに向くか、寝るか、遊び始める。子どもにとっては、何も面白味がないのである。

ここで、色紙と段ボールを使って「おおきなかぶ」の模型を作ってみる。大人からしてみれば、勉強が終われば捨ててしまうゴミ、言わば「しょうもない」ものである。しかし、不思議なことに、子どもの目は輝き始める。

「触りたい!」「持たせて!」「引っこ抜きたい!」と、最低限の道具だけの学びのときには聞こえなかった言葉はたくさん聞こえてくるようになる。さらに「お話の内容をみんなでやってみたい!」という声まで聞こえてくるではないか。「しょうもない」もので、子どもが喜ぶ例の1つである。

なぜ、こんな話を note に書いたのか。ここ数年で「働き方改革」という言葉が定着してきたと思うが、これのおかげで「しょうもない」ことをする時間がなくなってきているのである。

やることに追われ、ひと段落することには「残業はするな、帰れ」と言われる。必要最低限のことをこなしていく毎日が続いていく中で「しょうもない」こと・ものを生み出す時間がないのである。

時間的ゆとりがある中でしか生まれない「しょうもない」ことから、面白さや楽しさは生まれるのではないか。決められたものを決められたとおりに消化していく毎日に、面白さや楽しさはあるのだろうか。

そんなことを考えてしまう、土曜日の午後である。温泉にでも行こう。


いいなと思ったら応援しよう!