1997年当時のアンゴラ(2)
この記事は「1997年当時のアンゴラ(1)」↓ の続きです。
当時のルアンダの「Marginal (マルジナーウ)」と呼ばれる海沿いの目抜き通りには、ほとんど店らしい店もなく、商店であったであろうショーウインドーも空っぽで店は閉ざされていました。
現地の人に聞いたところ、前年に思いもよらなかった市街戦が繰り広げられたのを機に、商店主等がヨーロッパなどに逃げてしまったのだということでした。
こういった裕福層が国外に退避していたことも、道が空いている原因の一つだったというわけです。
部屋で食べる用にパンでもあれば欲しいという人がいたので、ドライバーに最寄りのパン屋に連れていってもらうと、鉄格子越しにパンを頼むと、一種類しかないフランスパンもどきのパンを売ってくれるというものでした。
そのパンも、ホテルのもの同様、黒ずんでまずいものでした。これについては、 (1)で記したブラジル資本の大手スーパーで1KG単位で売っているもの以外は、アメリカからの援助物資として入ってくる劣悪な品質の小麦粉しかないためであったことが後に判明しました。
そのような状況ですから、数少ない営業中の店は、非常に強い印象が残っていますし、その後も何度も訪れています。
その ① キャノンの代理店
ホテルの隣のビルにキャノンの代理店があり、そこは当時は品数こそ少ないものの、通常通り営業していました。なにせ隣の雑居ビルに海外の大手海運企業などが入っていましたので、確実なニーズがあったわけです。この代理店は、2018年に行ってみると、品数が増えて内装が少し更新されていましたが、以前と同じように営業していました。ルアンダで私が知っている中では20数年間最も変わっていない店です。
その ② 中華レストラン Chez Wou
こんなところに何故?と思うような、外装も内装も、日本を含め世界各国の中華街にもありそうな中華料理店で、ここでそれまでの人生で一番美味しいホット & サワースープを飲みました。経営は台湾系のグループで、雇われ店主が数回変わり、2004年頃には2号店ができ、やがてその2号店がメイン店となり、増築の末ホテルとしても機能するようになり、今も健在です。残念ながら、ホット&サワースープが美味しかったのは 最初の「立ち上げ担当店主」の時代だけでしたが、最近になってそのスープの再現に成功したのでわたくし的にはノープロブレムです。>笑
その ③ Pizzeria Rialto
美味しいピザやパスタが食べられる店でしたが、2018年に、独立記念碑だか何だかの建造のため立ち退きになり、そのまま移転することもなく消失してしまいました。
上記3店が最も印象に残っているもので、その他にも、下の店と、それと 同系統のものが数件ありましたが、どこも似たりよったりで、しかも高いので、② と ③ にばかり行っていました。
Restaurante Caribe - Ilha de Luanda
飲んで良し、食べて良し、プライベートビーチで泳いでも良しの店です…が、当時は「今日は○○か△△しかないわ」と、その時あるものを食べるしかなく、内装・外装ともにボロボロで、客も国連機関の人達などが、いても1~2組程度という状況でした。
生き延びた今はこんな ↓ 感じで、料理はポルトガル系・ブラジル系どちらも 出します。
そんな当時のルアンダでしたが、ここで得たものは大きく、私の最大の恩師といっても過言ではない人と出会っています。
その方は当時の仕事の主要なカウンターパートの一人だったのですが、私はというと、ブラジル人丸出しで業界のことは何も知らず、悪い意味で無邪気極まりないおバカだったのですが、そんな私をとても可愛がって下さって、今の私を形成する土台となる知識を授けて下さいました。
その方はブラジルも日本も訪れたことがあり、その2か国の文化を背負った私がアフリカで上手くやっていくのに必要な心得を教えて下さり、私が通訳に詰まれば、即座に何が分かり難かったかを察知してフォローして下さり、ご自分なりの日本人の仕事の仕方についての分析や、アンゴラ側の対処方針などについても教えて下さいました。
教わったことの一部は、いずれここに記すつもりでおります。
尚、この方とは3年程断続的にお仕事でご一緒させて頂いたのですが、その後私はブラジル関係の仕事が中心となり、アンゴラを訪れることのない2~3年間のブランクがあり、その間に急性心不全で亡くなってしまいました。
それを知った時は非常にショックでしたが、これもまたアフリカです。当時アンゴラ人の平均寿命は 45歳程度。その方は50代半ばだった筈です。その後も、20年間で10人以上の仕事仲間が亡くなりました。しかも、私はアフリカに住みっぱなしではないので、久々に訪れると、「残念ながら〇〇さんは」との報告を受けるパターンばかりです。これには毎回とてもやるせない気持ちになります…。
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私が訪れたアフリカ葡語圏で、客観的に見て一番いい国はカーボベルデですが、心情的に一番強い思い入れがあり、行く度に「ああ、帰って来た」と、しみじみ感じるのはアンゴラです。
何年間も世界で最も物価が高い国だったアンゴラ…。
世界で最も多くの地雷が埋まっていたアンゴラ…。
地雷の問題を世界に訴えるべくダイアナ妃も赴いたアンゴラ…。
思えば、初めて私にアンゴラ共和国について教えてくれたのも、アンゴラ人女性でした。関連記事はこちら ↓
そして、亡くなってしまった私の恩師の愛したルアンダの町は、国が戦後20年を迎えようとする今、このような ↓ 変貌を遂げています。
ちなみにこの動画の 06:35' 前後に見える X 型のモニュメントが私のお気に入りのイタ飯屋があった場所です。モニュメントなんかいらないから、大好きだったレストランに戻ってきてほしいワ…と思う、食べることしか考えていない私なのでした…。>苦笑
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