部屋のモノ=記憶のスイッチ
「人は裸で生まれてきて、
ゴミに囲まれて死んでいく。
そういうものではないでしょうか。」
部屋の片付けの話に始まり
歴史感、人間の本質に迫る随筆、
五木寛之氏の「捨てない生きかた」
(マガジンハウス新書)を読んだ。
本書は、あと片付けや断捨離を
決して否定するものではない。
「取るに足らない小さなモノであっても
じつはそのモノには、
まず自分のところにやってきた
という物語、そして自分の身のまわりに
何十年となくあるという物語が
必ずあることを忘れたくないのです。」
モノには記憶(歴史)や想いが宿る。
そんな大切なモノに囲まれて
余生を過ごすもの良いもの。
部屋を構成するモノは、
記憶を蘇らせるスイッチであると説く。
「執着はよくないという話も聞きますが、 モノに執着し、ヒトに執着し、
イノチに執着するのが
人間というものです」
但し、話はそこに留まるのではなく、
物を残すことの本質的な理由、
そして人生の指針にまで広がる。
そのほこ先は、著者の部屋から
金沢など日本の名所へと飛び出し
そして欧州に至るや、
時代を遡り歴史の深みへと潜っていく。
そして、エピローグ(あとがき)で
引き潮のように、
もとの自分の部屋、つまりは
ガラクタだらけの自分の城に戻る。
あの日あのとき、
ここで誰かが生きていた軌跡と息吹。
そのよすが語り継がれず、
依代(よりしろ)が消えていくことは
その物語がなくなるということ。
刻々と、町から時代の足跡が消えていく。
町名が変わり、立札、看板、建造物が
どんどん変わり、
そして方言までもなり、
その結果、町に奥行きがなくなる。
この国の原型が、原風景が遠ざかる。
フィレンツェ、ローマ、パリ、
そしてバルセロナには今でも
人類の遺産がしっかり佇んでいる。
一方、日本はどうか。
勿論、僅かにはあれど、
要はどれだけ記憶の実感を
重んじているかと著者は綴る。
そして戦争の記憶に辿る。
例えば、満州国の行く末、
「乙女の碑」といった、
決して目をそむけてはならない歴史。
織田信長を討った明智光秀が
山崎の戦いで羽柴秀吉に
破れたことは語られるが、
その合戦に駆り出された民衆に
スポットが当たることはないと
著者は指摘する。
まさに至言。
語り継がれる歴史だけが
本当なのではない。
歴史の影に潜んでいる事実。
どんな存在であれ僕も
いずれその中に入る。
だから僕らは身近な人に
自分が生きた時代を語り継ぐことが、
この国の本当を伝えることが、
使命なんだと思う。
やがて語り部がいなくなれば
残るのはモノであると著者は着地する。
「人は裸で生まれてきて、
ゴミに囲まれて死んでいく。
そういうものではないでしょうか。」
見えない明日へ向かう背中を
そっと押してくれるのは
それまで何とか生きてきた自分自身。
それこそが記憶なのだと。
人は執着から完全に
解き放たれることは出来ない。
ある程度の執着を受け入れるのも
ひとつの知恵ある生き方。
そして捨てずに部屋にあるモノは、
記憶を呼び戻すスイッチ。
勇気をいざなう寄る辺。
僕の中で、あと片付けの概念が
少し変わりつつある。