私の幻の博士論文 第9回 スポーツ技術の目的論的意味解釈のための基本枠組みの検討その1
前回
1. はじめに
今回から次々回までの全3回では、スポーツ技術の目的論的意味解釈を行うための基本的思考枠組みとはどのようなものであるべきかということを検討していきたいと思います。提案される枠組みの基本的なコンセプトは単純なもので、「ある技術を使用する(あるふるまいをする)ことによって望ましい出来事/状態が生じるという効果があるとき、その技術/ふるまいには、その望ましい出来事/状態を発生させるという目的論的意味がある」というものです。
前回、因果関係の定義について考えた際に、「ある行動を行う場合と行わない場合を比較する」という表現だけでは、その意味する内容に曖昧さ(多義性)が残ってしまうということが問題になりました。そのため、その意味内容をより厳密に特定するための議論が必要になりました。これから全3回にわたって行っていくことも、基本的にはこれと同様の作業になります。つまり、上で提示された基本的コンセプトに含まれている曖昧な部分を明確化していくことが全体を通しての目標となります。
初回となる今回は、多数回の試技(競技行動)に表れる確率的関係に基づいて、ある技術/ふるまいの目的論的意味を分析/解釈するというアイデアを提示したいと思います。このアイデアを出発点としつつ、次回以降は、そこに含まれている不十分な点を取り上げ、そこに修正を加えていくという段取りで議論を進めていきたいと思います。
2. 目的論的意味解釈における客観的効果主義
一般論として、人間行為の目的論的説明には、当事者の抱いている主観的意図はどのようなものだったのかという観点からの説明と、その行為をすることの帰結としてどのような客観的効果が生じるのかという観点からの説明の2種類があり得ます。この点について、冒頭で提示された「望ましい出来事/状態が生じるという効果があるとき、その望ましい出来事/状態を発生させるという目的論的意味がある」という基本的アイデアは、後者(客観的効果)の観点からの説明/意味解釈を目指すことが念頭に置かれたものと言えます。
前回までは、このタイプの目的論的説明を目指すということを、当然の前提かのように議論を進めてきました。今回からの検討においてもこの立場が踏襲されることになります。しかし、ここでいったん立ち止まって、客観的効果について考えることがバイオメカニクス的動作解析における目的論的説明のあり方として推奨されるのは何故かという点について考えてみたいと思います。
客観的効果の観点からの目的論的説明を目指すことが推奨されることについては、大きく2つの理由づけが可能です。1つ目の理由としては、バイオメカニクス的動作解析が取り扱う情報の性質上、運動を遂行する当事者の主観的意図を推し量ることは原理的に困難であるということが挙げられます。
バイオメカニクス的動作解析が主に扱うのは、骨格系の動きと筋の力発揮という身体の物理的挙動です。それに対して、当事者の主観的意図には、身体の動きのような物理的実体が(骨や筋の挙動のような分かりやすい形で)あるわけではありません。
つまり、バイオメカニクス的動作解析において、運動する当事者の主観的意図としての目的論的説明を目指すためには、物理的挙動についての情報から、非物理的(少なくとも物理的実体との関係性が非常に曖昧)な内容を読み取るということが要求されることになります。ここに根本的な困難性があるということが、バイオメカニクス的動作解析において主観的意図の観点からの目的論的説明を目指すということに慎重になるべき理由だというのが私の考えです。
2つ目の理由としては、スポーツパフォーマンスを対象としたバイオメカニクス的動作解析においては、客観的効果の方にこそ知見としての価値があると考えられるということが挙げられます。
主観的意図としての目的と客観的効果としての目的は、どちらか一方が存在するときにはもう片方は存在しないという二律背反的なものではなく、問題なく併存していることもしばしばあると考えられます。例えば、エアコンのリモコンを操作するという行動をしている時には、「部屋を適温にしたい」という主観的意図と「部屋が適温になる」という客観的効果が(エアコンが壊れていなければ)問題なく併存可能です。スポーツ技術においても同様に、あるふるまいをすることについてのプレイヤー自身の主観的意図と客観的効果とが一致しているというケースも多々あるだろうと思われます。
しかし、このような主観的意図と客観的効果の一致は、いついかなるときも生じるわけではなく、主観的意図はあるが客観的効果はない場合や、主観的意図はないが客観的効果がある場合などもあり得ます。優れたスポーツ選手の中には、自分のプレイを説明できない選手がいるように、必ずしも明確な意図を有しているとは限りません。これは主観的な意図はないが客観的な効果はある場合に該当すると言えるでしょう。他方で、プレイヤーが技術についてのある種の信念を持っているのだが、実はその信念は誤りであるというケースも存在し得ます。これが主観的意図はあるが客観的効果はない場合に該当すると言えるでしょう。論理的には図1のような4パターンが存在することになります。
ここで、自分があるスポーツ種目のプレイヤーで別のプレイヤーの行っている技術/ふるまいを取り入れるべきかどうかを悩んでいるという状況を考えてみましょう。このプレイヤーにとって取り入れる価値があるのは、図1の第1象限および第2象限の技術/ふるまいだと考えられます。なぜなら、その人にとってプラスとなる客観的効果さえあれば、それを行っている当事者の主観的意図がどのようなものであるかにかかわりなく、それを取り入れることによってプラスの客観的効果が生じるという利益を享受することが期待できるからです。
つまり、図2のように、ある技術/ふるまいが取り入れる価値があるか否かを画しているのは、主観的意図の有無ではなく客観的効果の有無であるということになります。このように考えてみると、本質的に関心が向けられているのは、客観的効果の方であるということが分かります。
3. 確率を相対比較することによって効果の有無を評価する
前節では、ある望ましい出来事/状態が発生するという「効果」がある場合に、ある技術/ふるまいにはその効果を享受するという「目的論的意味」があると解釈するという、効果と目的論的意味とを同一視する前回までの議論において暗黙の前提としていた基本方針を、今回以降も継続するということを確認しました。本節では、「効果がある」と言えるか否かを評価する際には、十分な確率で望ましい出来事/状態が生じれば良いと考えるべきであること、そして、十分な確率とはどの程度の確率かという点については、相対比較の視点を持つべきであるということを論じたいと思います。
まずは、「十分な確率」という基準を設ける必要があるのは何故かという点についてお話しします。あるふるまいをすることにある望ましい出来事を生じさせるような効果があると言える分かりやすいケースとしては、そのふるまいをすることによって、その望ましい出来事が「必ず」発生するような場合でしょう。「必ず」ということを確率の言葉で置き換えるならば、「100%の確率で」ということになります。つまり、「十分な確率で」という基準を置くことによって、必ず(=100%の確率で)望ましい出来事/状態を実現するという効果があるとは言えないような技術/ふるまいの中にも、ある望ましい出来事/状態を実現する効果(=目的論的意味)があると認めるべき場合があるという立場をとることが宣言されているのだと言えます。
このような確率的視点が組み込まれた評価基準が必要になることは、スポーツ競技の実態について思いを巡らせてみれば容易に理解することができると思います。スポーツを競技として行うということは、出来るか出来ないかぎりぎりの課題に挑戦するという側面があります。ということはつまり、たとえ優秀なプレイヤーであったとしても、実現されることが望まれる出来事/状態(試技に成功する、試合に勝利する、好記録を出す、有利な状況で試合展開を進行させるなど)が常に達成できるとは限らないということになります。
だとすると、たとえ実現確率が100%よりも低いとしても、望ましい出来事/状態を実現する効果(=目的論的意味)があると認めるべき場合があるとしておかなければ、望ましい出来事/状態を実現するという効果(=目的論的意味)があると認められる技術というものは、この世に一切存在しないということになってしまいかねません。裏を返せば、望ましい出来事/状態の実現につながる優れたスポーツ技術が世の中には色々と存在していると私たちが考えているということは、いついかなるときも望ましい出来事/状態が実現してくれるわけではなかったとしても、そのような出来事/状態を実現する効果(=目的論的意味)が存在している場合もあるのだと、私たちが日常的にみなしていることの証左とも言えるでしょう。
次に、「相対比較の視点」が必要になるとは、どういうことかについて考えてみましょう。「十分に高い確率で」という基準を受け入れたとすると、直ちに次なる検討すべき論点が浮かび上がってきます。それは、望ましい出来事/状態が実現される確率がどの程度であれば、「十分な確率」と認めて良いのだろうかということです。この問いに対する回答が、「他の技術が使用される場合と比較して相対的に高い確率」かどうかという基準で考えるべきというものになります。
相対比較の視点が必要になることは、絶対的な大きさとしては小さな確率であっても、高い確率だと評価すべきケースというものを思い浮かべてみると、理解できます。ある治療法を選択することで病気が治癒する確率が1%しかなかったとしても、別の治療法を選択した場合に病気が治癒する確率が0.1%しかなければ、1%の確率で治癒する治療法は優れた治療法(この病気の治癒を目指す上で効果的な選択)と言えるでしょう。これと同じように、ある技術を使用/ふるまいを実行することによって望ましい出来事/状態が生じる確率が十分なものであるかどうかということは、比較対象となる技術/ふるまいが選択された場合にはどのような確率で望ましい出来事/状態が生じるかということとの比較を通じて評価される必要があるというのが私の考えです。
本節のメインとなる内容は以上ですが、補足として、より深く考えていくと出てくるであろう論点について2つ軽く触れておきたいと思います。2つの論点はどちらも、複数のパターンについて場合分けして検討するというような作業を丁寧に行っていく必要があるものだと考えています。しかし、今回から次々回にかけては、これら2つの論点について深入りすることはせず、最もシンプルで分かりやすい単純なケースのみを想定して議論を進めていくつもりです。そうするのは、以下の3つの事情からです。
①こうした論点についての整理が私自身まだつききっていない
②こうした論点についての議論を過度に複雑化してしまうと、私が面白く重要だと考えている、いわば中核的内容と呼べる部分に読者が集中することの妨げになる可能性が高い
③中核的部分についての議論を理解する上では、こうした論点についての複雑な議論を抑えておく必要はない
深入りしない論点についてわざわざ寄り道するのは何故なのかという疑問も出てくるかもしれません。それは、単純化や省略がされているということを明示されていた方が、議論が理解しやすくなると考えているからです。これは私自身がそうなのですが、人の話を集中して聴けなくなるときの1つのパターンとして、話の本筋から少し逸れる細かな論点が気になり出してしまうということがあるのではないかと思います。この場合、ここは単純化しているのだとか、ここはこれ以上深く考えないといったことを明示的に言ってくれた方が、その部分に対して無用に注意資源が投入されてしまうということが緩和され、中心的な議論内容に目を向けやすくなるのではないかと考えています。
1つ目の論点として、比較対象とする技術/ふるまいに複数の候補・選択肢がある場合には、どれと比較するのが適切な比較と言えるのかという問題があります。あるスポーツ種目において、技術Aとの比較対象となり得るのが技術Bという1種類しかないという場合には、それと比較するほかないということになるでしょう。しかし、現実的には、比較対象の候補として複数の技術が存在することの方が多いだろうと思います。あるいは、大まかな分類としては、2種類に分類することができるようなものであっても、それらの中に小分類をさらに作り出すということもできてしまうはずです。
このように、比較対象の候補となる技術/ふるまいが複数存在する場合、どれを比較対象とするかという点について選択の余地があることになります。そして、問題となるのは、何を比較対象として選択するか次第で、関心対象となっている技術/ふるまいについての評価は変動してしまうということです。ゾウはネズミと比較したらとても大きく、地球と比較したらとても小さいといった具合です。
比較対象の候補として複数の選択肢が存在するときにはどのように考えるべきかという点については、私も水面下でいろいろと考えてみているのですが、かなり込み入った議論をする必要があるという認識を持っています。そのため、今回から次々回にかけての議論では、2つの技術A、Bのみが存在する、つまり、あるスポーツ種目の具体的実施においては、必ず技術A、技術Bのどちらかを使用していると分類することが可能であるという単純化された状況を想定して話を進めていきたいと思います。
2つ目の論点として、出来事/状態の評価をどのようなスパンあるいは単位で行うかというものがあります。この点についても、1つ目の論点と同じように、複数の選択肢が存在しており、それによって評価が変動するという性質があると考えられます。
もっとも、このような抽象的言い回しだけだと、何が問題として取り上げられているのかよく分からないと思います。この点については、陸上競技の走り幅跳びや投擲種目のような複数回の試技の中からベストな記録が採用されて順位が決定されるような場合について考えてみることで、どういうことが問題になるのかという点について理解しやすいのではないかと思います。
2つの技術A、Bについて、より良いパフォーマンスを実現させる効果(=目的論的意味)があるのはどちらかという点についての比較を行うとします。分かりやすい比較の仕方としては、1回試技を行ったときにマークされる記録の期待値によって評価するというものが考えられます。そして、1回試技を行ったときにマークされる記録の期待値とは、同じコンディションの下で多数回の試技を行った際の記録の平均値であると定義することができるでしょう。これは、シンプルで分かりやすい考え方だと思います。この分かりやすさを買って、今回から次々回にかけての議論では、このような評価の仕方を採用することを前提として議論を進めていくことにします。
しかし、既にお気づきの方もいるかもしれませんが、走り幅跳びや投擲競技のような複数回の試技の中からベストな記録が採用されるというルールの下で競技会が行われている場合には、上のような考え方に基づき評価を行うことには危険が伴います。何故なら、全6回の試技の内5回は大失敗をするが1回は大成功するというような技術がある場合には、そういった技術の価値を見過ごしてしまう可能性があるからです。そのような技術が仮に存在するならば、全6回の試技の平均記録は低くても、1回だけとても良い記録を出すことができれば、最終的な競技結果としてはより高順位になるということが起こり得るからです。このように、大会・試合における競技記録の決定方法次第で、どのような技術を採用することが目的合理的かということの評価が変動するということに留意しておく必要があるのです。
4. 全体的/最終的パフォーマンスとの関係での説明/評価枠組みの検討
前回検討した、条件間の比較に基づく因果関係の定義には、「どのような実験や観察を行い、何を調べれば、因果的効果の有無を判定することができるのか」という点について指針となるようなものが含まれていました。すなわち、全く同じ状況を整えた上で、注目対象の行動/出来事の有無のみに変化を与えた上で、その後の行動/出来事の推移を受動的に観察し、変化が加えられた後に条件間で違いが生じている部分に関しては、その行動をすることによる因果的効果が反映されたものだと考えることができるだろうといったことです。
これと同じように、本節および次節では、ある技術/ふるまいにある目的論的意味(=効果)があると認められるのはどういう場合であるかという点について、実際的なデータ収集・処理と紐づける形でより詳しく考察していきたいと思います。本節では、「望ましい出来事/状態」の最も分かりやすい形と言える、より良い全体的/最終的パフォーマンス(試技に成功する、試合に勝利する、好記録を出すなど)の実現との関係での目的論的意味(=効果)の有無を評価する際の枠組みについて検討します。
まずは、どのようなタイプのスポーツ種目を念頭において考えるかという点について確認しておきたいと思います。想定するのは、外部環境の変化が存在しない条件で、自分が行いたい動きをするタイプのスポーツ種目とします。私自身の個人的関心としては、対人的な戦略性や、変動の激しい外部環境への対応が求められるスポーツ種目にも適用できる枠組みを構築することが最終的な目標なのですが、その場合、今回提示するものよりも複雑な枠組みが必要になると考えています。自分なりの腹案は少しあるのですが、まだ完全には煮詰まり切っていませんので、今回は、このような比較的シンプルな種目を取り扱うことを想定して議論を進めていきたいと思います。
あるスポーツ種目の選手100人がいるとしましょう。この選手たちは、身体的特性(身長、体重、筋力、神経系の発達具合等々)がほとんど同じ水準にあるものとします。また競技への取り組み方の水準(経験年数、トレーニング環境等々)もほとんど同じ水準とします。このような「背景的条件」が揃ったプレイヤー集団をバイオメカニクス的動作解析の計測環境に招き、個々の選手の競技行動を実行してもらうとします。
仮に100人のプレイヤーに集まってもらい、100回の競技行動を実行してもらうとします。実際には、100回も競技行動を繰り返したら終盤には疲労でパフォーマンスが落ちると考えられますが、このような競技行動を繰り返すことによる、プレイヤーの生理的コンディションの変動はないものとします。ただし、100回の競技行動ではまったく同じパフォーマンスが毎回実現されるわけではなく、ちょっとしたタイミングのずれなどによって生じる1回ごとの出来栄えのバラツキは存在するものとします。
また、計測環境においても普段と同じような動き、パフォーマンスを実行することができるものとします。現実的には、この条件を満たすことはなかなか困難です。プレイヤー側の事情としては、不慣れな環境下で普段と同じようなクオリティーの競技行動をしてみせることの難しさがありますし、計測者側の事情としては、まったく制限のない競技行動を実行してもらえるような計測環境を用意することがスペース等の事情からそもそも難しいということが問題になります。
前節で述べたように、技術A、Bの2種類のみが存在しているものとします。各プレイヤーはそのどちらかを選択し、その技術を使用することを前提にしたトレーニングを長年にわたって積んできたものとします。
スポーツ種目の競技行動は、身体(筋骨格系)の物理的挙動(骨格の動きとそれを動かす筋による力発揮の全体的パターン)として表現することができます。実際の計測技術上の困難性に目をつぶれば、この全体的運動パターンは、バイオメカニクス的動作解析の技術によって原理的には記述(記録)可能です。
そうすると、計測者の手元には100人×100回の計10000回分の競技行動の全体的運動パターンについてのデータが存在することになります。このデータを用いて、ある技術/ふるまいの全体的/最終的パフォーマンスに対する効果(=目的論的意味)を分析/解釈するということについて考えてみましょう。
まず、全体的/最終的パフォーマンスについての定義を与えましょう。全体的/最終的パフォーマンスとは、実現された物理的挙動(全体的運動パターン)に対して、スポーツ種目ごとに定められたルール/基準にしたがって下される評価だと考えられます。ここで言いたいのは、ルールと物理的挙動が特定されることによって、それらの情報から全体的/最終的パフォーマンスを特定することが可能だということです。
陸上競技や水泳競技などはこのことが分かりやすく表れていますし、私が主に関わっている相撲というスポーツにおいても、対戦する2人の物理的位置(および体勢)についての情報さえあれば、どちらが勝者であるかを特定することができます。採点競技の場合は少しややこしくなります(同じ物理的挙動でも採点基準が変われば得点が変化する)が、基本的には、実現された物理的挙動に対してルール/採点基準に基づいて評価を下しているという点では共通していると考えることができるのではないかと思います。
次に、優れた全体的/最終的パフォーマンスを実現するという効果(=目的論的意味)の存否を分析する「関心対象の技術」についても、同様に物理的挙動と結びつけた形での定義を与えてみたいと思います。ある1回の競技行動/全体的運動パターンは、様々な形でその部分的状態/特徴を切り出すことができます。例えば、肩が何度以上に上がっているだとか、この局面で○○筋がどれだけの大きさの力を発揮しているだとか、重心位置の上下変動がある水準以下で維持されているかといった具合です。
こうした部分的状態/特徴の中から、目的論的意味についての考察対象とするもののことを「注目対象の技術」と呼ぶことにしましょう。つまり効果(=目的論的意味)の評価対象となる技術/ふるまいとは、競技行動についての全体的な物理的挙動のパターンに含まれる部分的な状態/特徴として定義されるということです。
このような抽象的定義を採用している理由は、バイオメカニクス的動作解析を通じて出てくる分析結果との親和性を意識しているからです。例えば、「ある局面において特定の筋が特定の力の発揮の仕方をしていること」といった細かく抽象的な内容は、一般的な語感としてはスポーツの技術とは呼び難いのではないかと思います。しかし、バイオメカニクス的動作解析においては、高いパフォーマンスの実現につながる重要な部分的特徴として、このような分析結果が導かれやすいという側面があります。上で提示された抽象的定義には、このようなケースについても包括して取り扱えるようにするという狙いがあります。
以上の前提を踏まえると、計測された10000回分の競技行動データのそれぞれに対して、全体的/最終的パフォーマンスを判定することができると同時に、技術Aが使用されている/技術Bが使用されているのどちらであるかを判定/分類することができることになります。今回は、全体的/最終的パフォーマンスについて1点(最低のパフォーマンス)から10点(最高のパフォーマンス)までの1点刻みで評価されるものとしましょう。
ここからは、図解で視覚的に把握できるように全10回の競技行動を分析対象とした場合について考えてみます。より多くの競技行動データを取り扱う場合にも原理的には同じ作業をするものと考えてください。図3のように、この10回の競技行動について、全体的/最終的パフォーマンスおよび技術(=部分的状態/特徴)A、Bが含まれているのかを判定することができます。
そうすると、図4のように、技術(=部分的状態/特徴)A、Bが含まれている場合それぞれについての、平均パフォーマンスを算出することができます。つまり、このような手順を踏むことによって、技術A、Bが行われている場合における平均パフォーマンスを相対比較することが可能になります。そして、「技術Aが含まれている試技の平均パフォーマンスの方が、技術Bが含まれているものよりも相対的に高いとき、技術Aを使用ことには技術Bを使用することとの比較において、高い全体的/最終的パフォーマンスを実現する効果(=目的論的意味)があると言える」というのが今回提示する枠組みの基本的なアイデアということになります。
5. 中間的/部分的状態との関係での説明/評価枠組みの検討
前節で検討対象とした、全体的/最終的パフォーマンスとの関係での目的論的意味(より良いパフォーマンスを実現する効果)を知ることは、スポーツパフォーマンスの改善に関心を持つ人からすると、とても重要なことです。なぜなら、複数の技術的選択肢がある状況下において、どの技術を採用するべきかという実践的判断と密接に結びついているからです。
とはいえ、スポーツ技術についての目的論的説明/解釈がこれだけで終わってしまうことには満足しない人も多くいるはずです。技術A、Bのどちらを使用した方がより優れた全体的/最終的パフォーマンスが実現されることが期待できるかという問いに対して、仮に技術Aを使用した方が良いという回答が得られたとしたら、続いて、どうして技術Aの方が技術Bよりもより良いのか(優れた全体的/最終的パフォーマンスが実現しやすいのか)、その理由についての説明が欲しいと考える人が多いのではないかと思います。
ある技術が良いものである理由について問うことには、どのような実践的意義があるのかということも実は重要な論点ではあるのですが、この点については、本連載の後の方の回にて、立ち戻って考察する予定です。差し当たり今回は、このような疑問に対する答えが欲しいと直観的に感じる人が多くいるだろうということを素直に受け入れて、こうした問いに答える際の基本的構文とはどのようなものとなるだろうかという点について考察してみたいと思います。
まずは、私自身の直観がもっとも働くスポーツである相撲において使用される技術を題材として、ある技術が良いものである理由について、日常的スポーツ実践の中ではどのような思考が展開されていそうかということを考察してみたいと思います。そして、考察された内容を抽象化することによって、ある技術を使用することが優れた全体的/最終的パフォーマンスにつながる理由を説明する際の一般的枠組みを取り出すことを試みたいと思います。なお、以下で提示する具体的内容については、考察のためのモデルとしての単純化を適宜施したものであることに留意してください。
相撲には、相手に押されたときに、押してくる相手の腕をつかんで自分の方に引き寄せるという技術が存在します。これを相撲用語では手繰る/手繰り(たぐる/たぐり)と言います。相手に押し負けそうになったときに、上手く相手の腕を手繰ることができると、できなかった場合と比較して、その対戦に勝利する確率が高まるものとします。そうすると、前節で提示された枠組みに基づき、手繰るという技術を適切な場面で使用することには、その対戦の勝率を高める効果(=目的論的意味)があると言えることになります。
次に、どうして手繰りという技術を使用することで勝率が高くなるのかということが問題になります。これについての回答としては、手繰りという技術を使用することによって、相手の背後(バック)や側面(サイド)にまわり込むことができる可能性が上がるということがあります。
相手のバックやサイドのポジションを取れたということ自体は、対戦の勝利を確定するわけではありません。しかし、このようなポジションを取ることができれば、かなり高い確率で対戦を勝利で終えられるということは、相撲経験者は共通了解として知っていますし、相撲を良く知らない人でも、相手のバックやサイドのポジションを取ることができれば、かなり有利な状況だろうなということは何となく想像がつくのではないかと思います。
以上の話を整理すると以下のようになります。
①所定の局面で適切に手繰りという技術を使用することができれば、それをしない場合と比較して、その対戦に最終的に勝利できる確率が高くなる
②手繰りによって、相手のバックやサイドにまわり込むことができる確率が高くなる
③一般論として、相手のバックやサイドにまわり込むことができた場合には、相手と正面で向き合っている状況よりも対戦に最終的に勝利できる確率が高くなる
④以上の3つの前提から、手繰りという技術を使用することによって勝率を高めることができる理由は、相手のバックやサイドのポジションを取ることができる確率が高くなるからであると言うことができる
⑤④のような説明が成り立つときには、別の表現の仕方として、手繰りという技術を使用することには、相手のバックやサイドのポジションを取ることができる確率を高くするという目的論的意味(=効果)があると言うことができる
さらに、①~⑤について、抽象度を上げた形で表現し直してみると以下のようになるでしょう。
❶技術Aを使用することで、技術Bを使用した(技術Aを使用しなかった)場合と比較して、望ましい全体的/最終的パフォーマンスが実現される確率が高くなる
❷技術Aを使用することによって、部分的/中間的状態Xが発生する確率が高くなる
❸一般論として、部分的/中間的状態Xが発生した場合には、Xが発生しなかった場合と比較して、望ましい全体的/最終的パフォーマンスの発生確率が高くなる
❹以上の3つの前提から、技術Aを使用することによって望ましい全体的/最終的パフォーマンスが実現される確率が高くなる理由は、部分的/中間的状態Xが発生する確率が高くなるからであると言うことができる
❺❹のような説明が成り立つときには、別の表現の仕方として、技術Aを使用することには、部分的/中間的状態Xの発生確率を高くするという目的論的意味(=効果)があると言うことができる
以上を踏まえて、前節同様に具体的データ分析のプロセスを軽くシミュレートしてみたいと思います。前節の例では、全体的/最終的パフォーマンスを1点から10点の整数値で表現しましたが、今回は、成功か失敗という二値的に全体的/最終的パフォーマンスを評価できるものとします。そして、全10000回の競技行動データは、以下の8パターンのどれかに必ず分類できるものとします。
①【技術Aを使用】【部分的/中間的状態Xが発生する】【成功】
②【技術Aを使用】【部分的/中間的状態Xが発生する】【失敗】
③【技術Aを使用】【部分的/中間的状態Xが発生しない】【成功】
④【技術Aを使用】【部分的/中間的状態Xが発生しない】【失敗】
⑤【技術Bを使用】【部分的/中間的状態Xが発生する】【成功】
⑥【技術Bを使用】【部分的/中間的状態Xが発生する】【失敗】
⑦【技術Bを使用】【部分的/中間的状態Xが発生しない】【成功】
⑧【技術Bを使用】【部分的/中間的状態Xが発生しない】【失敗】
今回は、図5のように全10000回の競技行動データが分類されるものとします。
そして、図5のように全10000回の競技行動データが分類されるとすると、以下のような分析/解釈が可能です(図6)。
①技術Aを使用した方が技術Bを使用するよりも、試技の最終的成功率が高くなる
➡技術Aには試技の最終的成功率を高めるという目的論的意味(=効果)がある
②技術Aを使用した方が技術Bを使用するよりも、部分的/中間的状態Xの発生確率が高くなる
③技術A、Bのどちらを使用するかに関わりなく、一般論として部分的/中間的状態Xが発生した場合の方が、Xが発生しない場合よりも試技の最終的成功率が高くなる
➡部分的/中間的状態Xが発生することは、試技の最終的成功にとって望ましい出来事と言える
④以上の3つの前提から、技術Aを使用した方が技術Bを使用するよりも試技の最終的成功率が高くなる理由は、技術Aを使用した方が望ましい部分的/中間的状態Xが発生する確率が高くなるからであると説明することができる
⑤この場合、技術Aを使用することには、望ましい部分的/中間的状態Xの発生確率を高めるという目的論的意味(=効果)があると言うこともできる
このように、収集された全体的運動パターンについてのデータの中に見られる確率的関係性に基づき、ある技術を使用することの目的論的意味を分析/解釈することができるのではないかというのが、今回提示したかった枠組みということになります。
6. おわりに:6つの利点
今回提示した枠組みには主に6つの利点があると私は考えています。むすびとして、これら6つの利点とはどのようなものかという点について簡単にまとめてみたいと思います。
1つ目の利点として、熟練に達した競技行動を分析対象とすることを前提とすることができるということが挙げられます。前回取り上げた、比較に基づく因果関係の枠組みの特徴として、因果的効果についての検討対象とする行動以外は比較条件間で全く同一に揃えることが前提となっているということがありました。他方で、ある技術を取り入れる上では、その技術を使用するということを前提として全体的運動パターンを調整する必要があるということも指摘されました。そして、前回検討対象とした類の因果関係の枠組みによっては、この二つの要請を両立することが困難であるということが問題となっていました。
この点について、今回提示した枠組みは、既にそのスポーツ種目に熟練したプレイヤーによる普段通りの試技から収集したデータを基にして目的論的意味解釈がなされるように設計されています。つまり、ある技術を使用することを前提として全体的な運動パターンが調整された後のパフォーマンスを分析対象とすることが可能になっているということです。
2つ目の利点として、バイオメカニクス的動作解析において取り扱うことのできる情報の範囲内で分析が完結するということが挙げられます。2節でも言及したように、目的論的説明としては、当事者の主観的意図が何なのかというタイプのものも存在しますが、こうした問いに対して、バイオメカニクス的動作解析において取得可能な物理的挙動についての情報に基づいて回答しようとすると深みにはまり込んでしまうことになります。その点、今回提示した枠組みでは、当事者の主観的意図や感覚のようなものは分析枠組みの中に含まれておらず、バイオメカニクス的動作解析における現実的実行可能性が比較的高い枠組みと言えるのではないかと私は考えています。
3つ目の利点として、技術が使用される局面とその効果(=目的論的意味)との間に時間遠隔性が存在することを許容できるということが挙げられます。前々回において、IAAによって導かれる力学的な直接的因果関係に基づく枠組みによっては、目的論的意味を適正に評価することができない場合があるということが指摘されました。このことを踏まえて必要とされたのが、時間的に離れた出来事同士に目的論的つながりを見出すことを可能とする枠組みでした。この点について、今回提示された枠組みでは、技術として定義される部分的状態/特徴と目的論的意味(=効果)として取り上げられる部分的/中間的状態との間には、前節で検討したような確率的関係性さえ成立していれば良いため、そこに時間的遠隔性があったとしても問題ありません。
4つ目の利点として、技術として取り上げられる部分的状態/特徴とその効果(=目的論的意味)として取り上げられる部分的/中間的状態との間の時間的前後関係が、通常の因果関係が想定しているものから逆転している場合についても問題なく取り扱うことができるということが挙げられます。私の知るかぎり、一般的な因果関係の枠組みでは、原因となる行動/出来事が結果/効果となる出来事/状態に対して時間的に先行しているというのがある種当然の前提とされていることがほとんどです。
それに対して、ここまでの連載で何度か触れてきたように、スポーツ技術の目的論的意味解釈においては、時間的に後の局面において実行される行動や技術が、時間的に先行する局面において利益を享受するという形での説明がなされる機会がしばしばあります。前回まで考察してきたような因果関係の枠組みによっては、このようなケースを上手く取り扱うことができないということが問題になります。この点についても、今回提示された枠組みであれば、前節で検討したような確率的関係さえデータ上に表れていれば良いので、通常の因果関係とは時間的関係が逆転しているようなケースについても柔軟に取り扱うことが可能になると考えられます。
5つ目の利点として、技術として取り上げる部分的状態について、「局所性の要求」を緩和することができるということが挙げられます。繰り返しになりますが、前回検討したような類の因果関係の枠組みでは、因果的効果についてのテスト対象となる部分以外には、外部からの人為的な変化をさせないことが求められていました。言い換えるならば、行動/出来事の流れに加えられる変化は、因果的効果についてのテスト対象となる行動/出来事のみの一点に絞られている「局所的」なものである必要がありました。
行動/出来事の流れの局所的な一点のみに変化を加えるというのは、ボタンを押すか押さないか、サプリを飲むか飲まないかといった行動については、大きな違和感なく適用することができます。しかし、運動技術の中には特定の一瞬間における局所的ふるまいとしては定義困難なものが多々あると考えられます。例えば、ジャンプスマッシュという技術は、高い打点でボール等を強打するということの他に、それとは別の時点における跳び上がるという出来事を合わせたものが要件(ある全体的運動パターンがジャンプスマッシュであると認められるための条件)として最低限必要になるだろうと思います。
このように、ある一点のみに変化を加えるという考え方は、ある全体的運動パターンの中に特定の技術が含まれているか否かを判定する際には、複数の部位や局面における身体のふるまいを確認する必要があるということと相性が悪いという側面があります。この点についても、先ほどのジャンプスマッシュの例で言うならば、「【インパクト前に跳躍動作によって離地している】かつ【高い打点でボール等を強打している】」という内容を技術として取り上げる部分的状態/特徴として定義してやることによって、局所的な特徴によって定義することが不可能な技術についても取り扱うことが可能と考えられます。
最後に、6つ目の利点として、動きが原因で力が効果という形式の説明を取り扱うことが可能になるということが挙げられます。私の認識としては、バイオメカニクス的動作解析における通念としては、力が身体に原因として作用した効果として動き(加速度)が生じるという見方が根強いです。
しかし、日常的スポーツ実践の文脈においては、ある動きをすることがきっかけとなって特定の力が発生するという効果が生じるという関係性が語られる場合があります。例えば、ある姿勢をとることによって、力が入りやすくなったといった表現はしばしばなされているのではないかと思います。この点についても、今回提示した枠組みでは、技術として取り上げる部分的状態/特徴として動きのレベルについての事柄を指定し、効果(=目的論的意味)として取り上げる部分的/中間的状態として力発揮のあり方を指定することによって、動きが原因で力がその効果というような説明をも取り扱うことが可能になると考えられます。
このように、今回紹介した確率的関係性をベースとした枠組みには好ましい性質が多数含まれています。しかし、残念ながら今回提示した枠組みには重大な欠陥があり修正が必要になります。次回は、欠陥とはどのようなものであり、その欠陥を踏まえてどのような修正が必要になりそうかという点についての私の考えを示したいと思います。