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スポーツ技術のバイオメカニクスにおける解釈論上の諸問題 第1回 私がスポーツバイオメカニクスを勉強し始めた頃に抱いていた問題意識

スポーツ技術のバイオメカニクスにおける解釈論上の諸問題 記事一覧


1. はじめに

 私がこれまで中心的に考えてきたのは、スポーツバイオメカニクスにおいて、得られたデータを目的論的に解釈するためには、どのような考え方をする必要があるのかという問題です。「目的論的に解釈する」とはどういうことなのだろうと思われた方も多いのではないか思います。差し当たり、「後続局面における事情との関係によって、先行局面における行動を説明したり評価したりすること」程度の意味で捉えておいてください。

今回は、このような問題意識がどのような背景から出てきたのかについて、

①私自身のスポーツ経験から出てきたもの
②大学院に入ってバイオメカニクス研究の現場に触れた中で出てきたもの

の二つの観点から紹介してみたいと思います。

次回以降は、抽象的な議論をする機会が多くなります。初回である今回のお話は、そういった抽象的な議論の出発点として、どのような現実的な動機があったのかということを読者の皆様にお伝えできればと思います。

2. 相撲のゲーム性についての単純化した説明

 先ほど、スポーツバイオメカニクスにおける目的論的解釈とは、「後続局面における事情との関係によって、先行局面における行動を説明したり評価したりすること」であると述べました。しかし、このようなもったいぶった表現だと、具体的にどのような問題をイメージしたら良いのかがはっきりしないと思います。そこで、私がずっと関わってきたスポーツである相撲において、どのような形でこの問題と出会ったのかということからお話したいと思います。

もっとも、読者の中には、相撲というスポーツがどのようなものかということについて、はっきりと認識していない方も多いのではないかと思います。そこでまずは、このあとお話したいこととの関係で必要となる側面に絞って、相撲というスポーツがどのようなゲーム性をもっているのかについて簡単に紹介してみたいと思います。

相撲における一つの勝負(試合)における勝利条件は、

①相手を土俵(円形のフィールド)の外に出す
②相手の足の裏以外を地面につける(相手を転ばせる)

のいずれかを相手よりも先に実現することです。厳密には、例外となるケースがいくつかあるのですが、ここでは気にしなくて大丈夫です。

 大抵のケースでは、プレイヤーは、条件①(相手を土俵の外に出す)の実現を目指して、「相手を押す」という行動を取ります。そして、この戦略を対戦する二人がともに選択することで、「押し合い」状態が発生します。

このまま相手を押す力、あるいは押す技術に優れた方が、相手を土俵の外に「押し出す」ことによって勝負が決着することも多いですが、押し合いで不利になっている側が、必死に抵抗して押し返そうとする場合もあります。その場合、抵抗された側は、横に動いたり、バックステップをしたりしながら相手の頭部を上からおさえつけるなどして、前重心になり過ぎた相手を転ばせることで(条件②の実現)、勝利することもできます。

こうした手段による勝利は「引き技」による勝利と呼ばれています。実際には、相手のどこをおさえつけて倒すのかといったことに応じてもう少し細かく技名が分類されているのですが、これも気にしなくて大丈夫です。

 このように、相手を土俵の外に「押し出す」ことで、勝利できる一方で、無理にそれを実現しようとすると「引き技」によって負けてしまう。この「押しと引きという二つの要素の間でいかに適切なバランスを取ることができるかを競う」というのが、相撲というスポーツのゲーム性についての、一つの単純化された説明となります。

※細かい補足ですが、実際には、腰にまいた「まわし」を取り合って戦う「四つ組み」の試合展開も存在しており、まわしを取り合わない「押し合い」の試合展開とは、見た目の試合展開が大きく異なります。もっとも、四つ組みの試合展開においても、「寄り(まわしをつかんだ状態で相手を土俵の外に出すための技術)」と「投げ(まわしをつかんだ状態で相手を転ばせるための技術)」との間で、「押し」と「引き」の関係と同様の駆け引きが存在しています。

3. 「引き技に対する対応力に難があるために強く押せない」という現象

 互いに「引かれる」可能性がある中で「押し合う」という相撲の基本的ゲーム性があることによって、(押す力がかわされるといった事態が発生しない)単なる物体を押し動かすのとは異なる技術が必要になります。もちろん、相手を強い力で押すことは大切なのですが、何が何でも強い力で押せば良いというわけではなく、そこで必要になるのは、相手が引いてきた場合にも上手く対処できるようなある種の安全装置つきの強い力です。

※なお実戦的には、一周回った駆け引きとして、引かれる可能性を考慮して全力で押してこない相手に対して、引かれた場合のリスクを度外視して、引かせる間を与えずに一気に押し切ってしまうといった作戦がとられるといったこともあります。

 私は、相撲のこのようなゲーム性を踏まえた技術的側面に強い関心を持ってきました。このような関心をもつに至ったきっかけとしては、自分自身が競技をしていた時の経験によるところが大きいです。

当時(15年前くらいです)私は、練習ほどには試合で、積極的に相手を土俵外に押し出すための攻撃を仕掛けることができず、動きが固まってしまうということが自分の課題であると感じていました。それに対して、大きな試合で上位に入るような選手たちは、プレッシャーがかかりそうな重要な試合でも、私のように固くならずに、アグレシッヴに試合を展開する(例えば、激しい動きで相手を押す、など)ことができていると感じていました。

このような違いが存在するのはどうしてだろうかという疑問を持ったことが、私が初めて相撲の上達ということについて真剣に考えるようになったきっかけだったと思います。

どうしてこのような差が、私自身と、より競技レベルの高い選手との間に存在していたのか。考えられる理由は様々あり、今でも確定的なことはわかりません。ですので、これから私がお話しすることは、当時私自身がどのような考えに至ったのかということについての振り返りのようなものとして受け取ってください。

 このような差が生じる原因あるいは理由として、例えば、緊迫した状況におけるメンタルコントロール能力の差であるといった仮説を立てることもできるでしょう。実際、私自身も試合になると、練習よりも緊張しているという感覚があり、そのせいで動きに精彩を欠いているのだろうと最初は考えていました。

その後、違った考え方をするようになったのですが、そのきっかけは、どこで読んだのかは残念ながら思い出せないのですが、あるエピソードを読んだことでした。そのエピソードとは、ある有名野球選手が試合で能力を発揮することができないことに悩む同僚の若手選手に精神面のコントロール方法について相談したところ、試合で練習のように力を発揮することができないのは、精神面の問題ではなく、技術が拙いからだというアドバイスを送った、というようなものだったと記憶しています。

これを読んで、私は自分が陥っていた状況について、自分の中で新しい仮説を立てるに至りました。それは、根本的な問題は、練習と同じことが試合でできないことではなく、試合で使える技術を磨くための練習ができていなかったことだったのではないかというものです。

 相撲の練習では、伝統的に、引き技を使うのは悪い癖がつくとして敬遠される傾向があります。そのため練習では、対戦相手は実際の試合ほどは引き技を使用してきません。 

とはいえ、練習においても相手に引き技を仕掛けられる機会がまったくのゼロになるというわけではありません。つまり、引き技に対処するための方法を習得するための機会は練習においてもいくらかは存在しているのです。しかし、この機会を活かして、引き技に対する対処能力を高めることを阻害する事情が、さらに二つほど存在しています。

一つめの事情は、引き技によって負けるということに問題を感じづらくさせる事情が相撲の練習文化の中には存在しているということです。相撲の練習では、引き技によって負けることは、積極的に相手を押して攻撃していることの証として、指導者からポジティヴに評価してもらえることが多いです。そのため、「引き技に対して脆弱な押し方をしていることによって、引き技によって負けてしまっている」という場合であっても、そのことを選手自身が問題だと感じづらくなっているという側面があります。

※誤解のないように注釈しておきますと、この指導方法自体には合理性があると私は考えています。

二つめの事情は、練習では同じ相手と何度も対戦する機会があるために、試合では活用することの難しい情報を手掛かりとして、相手の引き技に対して予測的に対処することができる場合が多いということです。相撲は同じ相手と対戦を繰り返していると、どういう状況ではどういう動きをするといった、相手の行動パターンをある程度把握できるようになっていきます。そうすると、自分の押しの技術が本当は、相手の引き技に対しての脆弱性を内包したものであったとしても、普段の練習相手に対しては、行動パターンの先読みによって、引き技に対して上手く対処できてしまったりします。

 以上のような要因が重なることによって、「引き技に対する対処能力という観点から欠陥のある押しの技術」が身についてしまう危険が相撲の練習には存在しています。通常は、あまりにもバランスの悪い押し方をしていたら、指導者にやんわりと指摘されることで、徐々に良いフォームへと修正されていくのですが、私の場合、特に高校時代は、特定の先生に継続的に指導されるような環境ではなかったために、悪い(引き技に対する対処能力に欠陥を抱えた)押しの技術が修正されることなく、身についてしまっていたのだと思います。

このような技術しか身についていない状態でいざ本番の試合を迎えると、普段通りのパフォーマンスを発揮しようと思っても、その普段通りのパフォーマンスが試合では通用しないものであるということになってしまいます。試合では、自分が引き技に対して脆弱な姿勢を取ったら、対戦相手は容赦なく引き技を仕掛けてきますし、初見の相手に対しては、どういったタイミングで引き技を仕掛けてくるのかを先読みするのも格段に難しくなります。そのため、自分の普段の押しの技術をそのまま使用することができず、消極的な動きしかできなくなってしまっていたのではないか、というのが後になって自分が陥っていた状況についての私自身の見立てです。

以上のような私自身の経験(についての私自身の事後的解釈)から、相手の引きに対する耐性のある押しの技術とはどのようなものなのかということに私は強い関心を持つようになりました。現在は、もう少し多角的に相撲というゲームを捉えているつもりですが、今でも、この点についてどのように対処するのかということを考えることが、相撲の技術論における一つの中心的問題であるという考え方は変わっていません。


 大学院に入ってから、この問題について考えようと思った理由の一つは、ここまで述べてきたような私自身の経験から出てきた問題意識によるところが最も大きいです。しかし、それに加えて、ここまで紹介してきたような、後に発生する出来事に対する対応力という観点から、時間的に前の局面における行動の良し悪しが決まるということは、相撲以外の多くのスポーツにも共通して存在する構造なのではないかと思ったということも、この問題にじっくりと取り組もうと考えたもう一つの理由と言えます。

その例としては、以下のようなものがあるのではないかと考えました。

・打撃系格闘技において、相手のカウンターを被弾する確率を低下させながらできるだけ強い打撃を相手に与えられるように工夫する
・レース系競技において、後半の失速が起こりづらくなるようなレース序盤におけるフォームを工夫する
・サッカーやバスケットにおいて、攻撃終了後の相手の攻撃に対する守備陣形の安定性を考慮して攻撃戦術を工夫する
・野球のバッティングにおいて、変化球に対する対応力を高めるために、スウィング動作に入る以前の構え方を工夫する
・野球の守備において、送球がしやすいように打球の捕球の仕方を工夫する

仮にこのような構造レベルでの共通性が存在するのだとしたら、私が個人的に関心を持っている内容が、より多くの人にとっても潜在的に価値があるものなのではないかとも考えられそうです。このように、ただ自分の個人的な興味というだけで終わらせるのではなく、研究として取り組んでみる意義があるのではないかと思ったことも、スポーツバイオメカニクスにおける目的論的解釈(後続局面の事情を考慮することによる、先行局面におけるふるまいの説明や評価)の枠組みを整備するという課題を追究してみることにした動機でした。

4. スポーツバイオメカニクスにおける基本的研究手続きとその不十分性

 前節の最後において、私自身の相撲競技との関わりを通じて形成された関心内容は、抽象的な構造としては、他の多くのスポーツにおいても同様の論点が存在している可能性があるという意味で、ある種の一般性があるということをお話ししました。しかし、多くの人が共通して関心を持ちうるトピックであるというだけでは、研究テーマとしては不適格かもしれません。研究テーマとして成立するためには、その問題がこれまでのところ十分な解決が図られていない問題であるということも必要になるだろうと思います。

この点について、私がスポーツ動作における技術や行動の目的論的解釈というトピックに着目したのは、スポーツ動作についてのそうした説明や考察の仕方は、私たちの日常的なスポーツ技術についての論評のレベルでは広く行われているにもかかわらず、学問(科学)的研究のレベルでは、これをどのように取り扱えば良いのかがはっきりしていないと思ったからです。例えば、どのようなデータが得られたのならば、「その技術は、後の局面で~するためのものだ」といった説明や考察を行うことが妥当なものとして認められるかといったことがまったく整理されていない状況にあると私は感じていました。

この問題についてどのように考えるべきだろうかということが、本連載の特に最初のおよそ三分の一の回において論じられる内容ですので、多岐にわたる論点についての考察はそちらに譲ることとして、ここでは、どのような思考に基づき、スポーツバイオメカニクスにおいては、スポーツ動作の目的論的解釈のための枠組みの整備が不十分であると考えるに至ったかということについて、少しだけ紹介してみたいと思います。

 まずは、スポーツバイオメカニクスの教科書(体系書)とされている書籍において紹介されている中心的内容は何かということからおさえておきましょう。スポーツバイオメカニクスの教科書において多くの紙幅を割いて解説されているのは、①観察対象とするスポーツ動作をカメラによって記録する方法、及び、②記録された動作についての情報を利用することで、その動作が遂行されている際に、全身の筋が時々刻々においてどのような大きさの力発揮をしているのかを推定する方法です。

もちろんこうした研究技法についても細かい問題はたくさん存在しています。とはいえ大雑把に言ってしまえば、そこで紹介されている技法を用いることによって、研究者の目の前で実行された身体運動がどのようなものであったかについて、肉眼で観察する以上の正確さで記述することが可能になると言えるでしょう。

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