芸術と経済の関係を考える
天邪鬼な自分に気づく
あまり人のnoteは見たことがなかった。最近気が変わり見始めている。きっとこんな話題だとみんな見たいんだろうなと題名つけた後、ちっとも筆が進まない。
ビジネスを学んだ時も同じ感じだった。こうすれば成功する、人気が出る、儲かる…その仕組みが理解出来ると途端に魅力がなくなってしまう。
セオリー通りにやって成功したものなら、なぜか哀しくなってしまって自分は向かないことをやると全く幸せな気持ちにならないことに気づいた。
改めて仕切り直して考えてみる
というわけで、芸術と経済の話も少し変わった角度になるのかもしれないですが正直な気持ちで書いてみる。答えがあるわけではありません。
タダでやるなという話がある。少額でやるくらいならタダと仕事とはっきり区別しろという話もある。
踊りは身一つで経費がかかってないからいいよねと言われたことがあるけど、これは明らかに間違い。芸術活動はその人の人生そのものが経費なのである。衣食住、毎日の過ごし方、すべてにおいて踊り優先で生きているからだ。
ただこれは自然になってしまうので当人も経費とはなかなか考えにくい。一般的に考える経費とは違う類であることは確かだけれど、資本主義社会で生存するためにはしっかり自覚する必要がある。
踊るときの出演料についてもなかなか頭が痛い問いである。というのも私は一も二もなく喜んでしまうからだ。今まで踊って欲しいと言われてビジネスライクであった試しがないので、当たり前かもしれない。
公的な催しや全員無料出演のポリシーがあるところ以外は出演料をいただいているが交渉をしたことはオペラ公演以外はない。
これから先、もしビジネスライクで見ず知らずの人が無料で出て欲しいと言ったら辞退するだろうとは思う。その人となりを知らない、志を知らないで踊ることは私にはムリだからだ。
これをプロではないというのなら私は喜んでプロではないと言うだろう。
いつも踊った対価はいただいている。それが目に見える時もあれば見えない時もある。どちらにしても踊るのが嬉しくて感謝する場にばかり恵まれている。
こだわりと頑固は違うもの
踊りだけ、舞台だけで稼いでる人がプロで別の稼ぎがある人はアマチュアだというのは頑なな考え方だと思っている。
稼いでいても精神が仕事に対してプロフェッショナルか、芸術に対してプロフェッショナルかは分かれるからだ。
仕事として考えるとエンターテイメントな面を考えないと大多数の要望に答えられない。もちろん、その人の芸術志向が偶然合致していたら、時代の申し子としてやっていけるだろう。それはそれでいいと思う。
私自身の話で言えばマイナーよりな志向だとわかったので、見たい人、共振する人にだけ伝わっていけばいいと思っている。それでも充分多くの出会いに恵まれている。
その場合は稼ぎは複数で行うことが必然になる。いろんなことをやる全てが私の仕事。仕事を形成している。
踊りはせめて鍛錬する費用、本番の経費が赤字にならないくらいはきちんと主張したいと考えている。今のところそこに思い至らない人とやっていないので、人を見る目が一番大切だと思っている。
人間として愛せない人と共に舞台を創り上げる事はどうにも不可能な気がする。仕事が出来ないとかわがままとかそんな事は気にしない。もっと根本的なところを見て関わり合う人を選んでいるのかもしれない。