『初恋の名前』
「あ!」
その声が聞こえた時には、テーブルにピンク色の湖ができていた。
僕は綺麗な湖だな、と思い眺めていた。
しかしその湖はすぐに形を変えて、テーブルの下へと落ちてゆき無くなってしまった。
「なにやってんだよー。」
「大丈夫?服汚れてない?」
「店員さんにタオル貰ってくるわ!」
色んな声が飛び交う。
大学のサークルの歓迎会で、後輩の女の子が飲み物を溢したのだ。
顔が可愛い彼女は、入ってきてすぐにサークルの男達の注目を集めていたが、僕は彼女の語尾を伸ばす甘ったるい喋り方が苦手で、あまり好きではなかった。
そんな甘ったるい喋り方の彼女は、これまた甘そうなピンク色のカクテルを溢し、
「すみませ〜ん、なんか酔っちゃったみたいです〜。」
と、胸焼けする様な甘ったるい声で、上っ面だけの謝罪をした。
周りの男達はそんな彼女を優しく気遣い、急いで白いタオルをピンクに染め上げた。
「ありがとうございます〜、皆さん優しいんですね〜」と彼女が言うと、ついでに男達の頬や耳までもピンクに染め上げた。
染め物職人なら国宝級の腕前だな、と感心していた。
ただ他の女の子達の顔が怖かった。
彼女とその周りの男達を見る目が鬼のようだった。
何?ここは鬼ヶ島なの?
お願いだから桃太郎さん早くきて!
あ、頬を染めた桃太郎さん達は甘ったるい女の子に夢中でしたねー、、もうこんな飲み会嫌だ…
などと思い、ひたすらに自分に与えられた小さなスペースだけを見つめ、ビールをちびちび飲んだ。
そういえば彼女が溢したカクテル、なんか映画の題名みたいな名前だったけどなんだっけな…。
僕は鬼ヶ島を抜け出し、そんな現実逃避を頭の中でしていた。
そんな時何故かふっ、と小学生の頃の給食の風景が頭に浮かんだ。
桜が花びらを落とし、美しい緑色の葉をつけ始めた新学期を迎えてすぐの頃。
まだ慣れないクラスメイトとみんな距離を測りつつも、自分の立ち位置を理解し始めた頃。
騒がしい教室の中、風に揺れるカーテンの前でゆっくり立ち上がった女の子を見て、
僕は「天女だ」と、そう思った。
カーテンが羽衣の様に彼女を揺らし、窓から差し入る光が彼女を照らした。
その姿はとても綺麗で美しく、天女とはこんな姿なんだろうなと感じた。
クラスメイトの男の子が、給食の時間に気持ち悪くなり、もどしてしまった。
その瞬間に教室は騒がしくなり、叫び声や「汚い」などと声が上がり、廊下側の席にいた僕には最初何が起こったのかわからなかった。
その声の方に目を向けた時には、一人の女の子が雑巾を手にしてしゃがみ込み、何かを拭いていた。
先生がその男の子を心配し声をかけている間も、ただ黙々とその女の子は何かを拭いていた。
その周りから人は消えて廊下側に人が集まる。
僕はまだ状況が飲み込めずに、人の流れに逆らって教室の中心まで到着して状況を理解した。
そして僕は後ろ姿でしゃがみ込む女の子を見た。
女の子は一人、男の子がもどしてしまったものを拭いていたのだ。
僕はその姿に驚き、すぐに自分も雑巾を手にして向かおうとした時、女の子は振り返り立ち上がった。
天女を見た。
本当に美しかった。
騒がしい教室の音も、周りの人も僕の中から消え、彼女の美しい姿だけが僕を捉えて離さなかった。
それから男の子は先生に付き添われ保健室にゆき、教室は何事もなかったかのように、元の給食の時間へと戻っていった。
彼女は両手に雑巾を抱えて、そんな教室から静かに出て行った。
僕はその後を追っていくと、彼女は水道で雑巾を洗っていた。
なんと声をかけていいのかわからず、無言で雑巾のうちの一枚を取り、彼女の横から一つ蛇口をあけて洗い始めた。
彼女は僕の方をしばらく見ていたが、また雑巾を静かに洗い始め、僕も何枚もある汚れてしまった雑巾を一枚一枚黙って洗った。
みんなが汚いと騒ぎ逃げたものを、彼女はただ一人黙って拭いていた。
そして今も一人黙ってそれを洗っている。
彼女は本当に天女なのだと僕は思った。
あたたかな日差しに、あたたかな風が流れる廊下で、僕はあたたかな心を初めて感じていた。
横で洗う彼女の方を少し見る。
綺麗な長い髪を耳にかけ、長い睫毛の奥の大きな瞳は静かに雑巾を見つめている。
その雑巾をあらう手は、白く小さくか細い、繊細な手をしていた。
なんて綺麗なんだろう。
そんな事を思っていたら「ありがとう」と声が聞こえた。
透き通る様な美しいその声は、小さくて消えてしまいそうだったけれど、僕の耳にちゃんと聞こえた。
驚いて我にかえると、彼女が大きく静かな瞳で僕を見ていた。
僕は何で彼女がありがとうなんていうのかわからなかったが、「俺の方こそありがとう」と言った。
彼女は不思議そうにこちらを見ていた。
慌てて、「だってお前が悪い訳じゃないだろ、それにお前にありがとうなんて言われる事はしてない。むしろみんな汚いって嫌がって逃げたのに、お前は一人で黙って掃除してただろ、えらいよ、だから俺の方こそありがとう。」
などと、偉そうに意味のわからない事を言ってしまった。
彼女は少し驚いた様子で、大きな瞳でこちらを見つめた。そして静かに微笑み、教室に戻って行った。
僕は恥ずかしさと、なんて馬鹿な事を言ってしまったのだと、しばらく動けずに水道の上にある窓から外を眺めていた。
窓の外には美しい新緑が風に揺れていた。
これが僕の初恋だった。
歓迎会は無事に終わり、鬼達は暴れる事なく無事にそれぞれの鬼ヶ島へとちゃんと帰ってくれた。
本当に良かった…まだきびだんごすら手にしてないのに、いきなりラスボスはキツすぎる。
あの甘ったるい女の子は最後まで甘ったるいままだったけど、ここまで甘ったるさを演じられるのも凄いなと少し感心した。
天然記念物の大樹くらいの力強さと根性を感じた、まああれは養殖物だけれど。
帰り道、あたたかな風が頬を撫でた。
見上げると桜の花びらは落ちて新緑の葉が揺れていた。
ああ、あの頃と同じだ…。
あれから10数年経つけど彼女は元気かな。
まだ君の事が好きだなんて言ったら気持ち悪がられるかな…。うん、、そうだよね、、気持ち悪いよね、うん…なんかごめんなさい…。
つーか彼氏とかいるのかな…そりゃいるよな、美人だったしあれから10数年経つし…。
幸せになってほしいと、ずっと彼女の幸せを願ってきたけど、本当に彼氏がいたらいたでなんか嫌だな…彼女の彼氏…まじ腹立つ。
すげー羨まし過ぎて死ねる。
でも今でも僕はあなたの事が好きだ。
きっとこの先も永遠に僕の初恋だ。
まあ永遠に初恋って、初恋は一度きりだから初恋なんだから当たり前か。
少し酔ってるのかな。
あ、そうだ。
溢したカクテルの名前を思い出した。
「My fair lady.」
そんな名前だったな。