加速主義は今日?(幸村燕)
※こちらは2022年11月20日刊行のぬかるみ派『現在思想vol.2特集=加速主義』に収録された「あとがき」として書かれたものです。加速主義が語られるようになった今だからこそ、読まれてほしいので特別に公開いたします。
▶まず我々は加速主義というイデオロギーが、白人至上主義や人種差別主義、ミソジニー、極右思想、新自由主義と切っても切り離せない関係にあるということを認めなければならない。実際、加速主義者はそれ自体、ブーガルー運動やネオナチズムなどとまとめて極右過激派の一グループにまとめられることも多い。特にアメリカの記事や出版物においては、加速主義者(Accelerationists)という言葉自体で過激な人種差別主義者を指し示すものとして用いられることも多く、二〇二二年に邦訳されたタリア・ラヴィンの『地獄への潜入 白人至上主義者たちのダーク・ウェブカルチャー』においても加速主義者はテロリスト予備軍の人種差別主義者の一例とされている。また二〇一九年三月一五日、ニュージーランドで二つのモスクを銃撃し、五一人の死傷者と四〇人の負傷者を出したテロ事件の容疑者ブレントン・タラントは加速主義に信奉しており、自らのマニュフェストに「過激な変化と社会の不快感があるときだけ、偉大で凄まじい変化が起こるからだ」と書いたことは見過ごせない事実である。彼らは、アメリカの極右活動家、物理学者、作家のウィリアム・ルーサー・ピアース三世に影響を受けており、特に彼が一九七八年にアンドリュー・マクドナルド名義で書いた『ターナーの日記』にその想像力の大部分を負っている。『ターナーの日記』は近未来のアメリカで起きる人種間戦争を描いているSF作品であり、一九八〇年代に「沈黙の同胞(Silent Brotherhood)」や「ザ・オーダー(The Order)」などの過激派の形成に影響を与えた。4chan等インターネット掲示板の登場以降、インターネットユーザーが第二次南北戦争の隠語として用いるようになった「ブーガルー」に端を発する一連の運動もその影響下にあると言えるだろう。もちろん、加速主義思想はこれらに何かを負っているということはなく、寧ろこれらの過激派思想が加速主義を都合よく流用しているというのが真実に近い。しかし、メンシウス・モールドバグ(本名:カーティス・ヤーヴィン)(1973-)の新官房学やニック・ランド(1962-)の右派加速主義などの暗黒啓蒙ないし新反動主義が、過激思想を証左に民主主義の崩壊を目指す反民主主義的思想であるのは事実であり、彼らの思想がこの混乱に乗じて技術による変革を目指すという加速主義であるならば、加速主義とこれらの過激な人種差別思想は簡単に切り離せるものではない。
▶そのため、日本においても木澤佐登志の『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』を始めとして、加速主義は新反動主義やオルタナ右翼との関係で紹介されてきた。このような紹介は切実であり敬服に値するが、しかしそれ故に加速主義がオカルトやドラッグ文化好きの趣味に留まってしまい、哲学的・政治的な問題意識は人口に膾炙しないままになっているのも事実である。新自由主義や技術第一主義的な主張に対して、「加速主義っぽいね」というような事はよく言われるが、実のところ発話者は加速主義とは何かを知らないのだ。
▶本誌はこのような状況に一石を投じるべく作られた。マット・コフーンの『無条件加速主義入門』は、無条件加速主義の入門であるばかりでなく、加速主義の入門にもなっており、加速主義に関する議論の歴史を振り返るためにも今後参照されるべきものとなるであろう。また、ジェルマン・シエラの『メタ可塑性』は、意外にも省みられていない加速主義のカルチュラルスタディーズ、文化批評的側面の一例でもある。マーク・フィッシャーによるジョン・カーペンター『遊星からの物体X』読解を元に、カトリーヌ・マラブーの「可塑性」とデイビッド・ロデンの「ハイパー可塑性」の理論を新たに導入し、物体X(=生きもの)を資本主義と言語性と肉体性に繋げていく試みはやや難解であるが読み応えがある。また、アフロフューチャリズムやゼノ・フェミニズムなどで問題となるエイリアン性を考えるにあたっても、重要な批評だと思われる。アンドリュー・ウェナスの『サイバーパンクのカットアップ音楽のエンジニアと建築家:ヤニス・クセナキスのグラニュラーシンセシス』は加速主義と音楽の関係に我々を立ち返らせてくれる。また、櫻井天上火、倉井斎指、江永泉の論考は翻訳では補えなかった加速主義やアフロフューチャリズムの問題を取り上げており、翻訳された論考と併読するのに適したものとなっている。また、拙作の『訳者解説』や『加速主義辞典』には未だ紹介、または整理されていない加速主義を著者なりにまとめたものである。今後加速主義を議論するのに役立てば幸いである。
▶第一号の自己啓発特集「序文」で書いたように、我々はまず批判されているものを検討する地盤を作ろうとした。本誌はその一つの実践である。本誌を批判するなり煮るなり焼くなりなんなりしても良い。しかし、それはしっかりと本誌を読んでからにしてほしい。本誌の新の目的は何かしらの政治的表明ではなく、思考材料の提供であるからだ。煮るなり焼くなりしたところで、ちゃんと食べてくれれば問題ない。我々は別に加速主義に与しているわけではない。ただ、加速主義という思想があまりにも安易にレイシズムや極右思想、新自由主義の言葉で片付けられていることに納得できなかっただけである。だから、出来れば迂闊に加速主義を批判するのではなく、その中に入り込んで思考をしてみてほしい。
▶分断し、切り捨てることは簡単だ。しかし、分断の先に何が待っているのだろうか。二〇一六年、ヒラリー・クリントンは大統領選でドナルド・トランプの支持者たちを「惨めなDeplorable人々の集まり」と称した。しかしこれによって、元々バラバラであったトランプ支持者たちはDeplorableという符丁を得て団結することができた。クリントンが意図せず暴き出してしまったのは、階級による分断だ。
▶目先の分断ではなく、階級闘争を復活させねばならない。資本主義が有害なのは事実だ。しかし、資本主義はあらゆる場所に席巻しており、資本主義の前で、我々は無力であるように思える。オルタナティブはありえない。未来が僕らの手の中にあるなんて思えない。加速主義は資本主義に対して自身の無力を理解して資本主義を賛美するのではない。加速主義は資本主義のその先へ行こうとする。近代の人間的、時間的、国家=家父長的条件を破壊し、資本主義的自由と家父長的所有の矛盾を止揚する。そして、未だ我々が手に入れられていない真の自由を手に入れる。これ故、近代以降所有され媒介にされてきた質的マイノリティや非-西洋諸国にとって加速主義は反逆の手段となる。Alienation〔疎外〕の解消ではなく、Alienation〔異質化=エイリアン化〕を加速させる方へ向かう。だが、どうやって? 技術と新自由主義者の蜜月を断ち切ることによってだ。左派もマイノリティも誰もが技術的ヘゲモニーを奪還しなければならない。もう一度、未来を僕らの手の中に。
▶とはいえ、日本で加速主義を構築するにあたって、西洋の請負では何ら意味がないように思う。加速主義という言葉は何となく手あかが付きすぎており、私にとってはあまりに馴染みがない。私はもっと別の言葉で、別の思考を始めないといけない。私はこれを過速主義と呼びたい。速過ぎる時の中で、過ぎ去ったものを見つめながら、現在を思考すること。過速主義は何となくオールドファッションな感じがして、私の手に馴染む。ぬかるみ派とは、つまるところ過速主義なのだと言えるだろう。過去も未来も手の中になく、私たちはただ速過ぎる現在に溺れている。私は世界を変える。たとえ世界に対して私が無力であっても、だ。無理かもしれない。わからない。でも、出来るように思える。
▶ノイズがレーニンの「左翼小児病」をもじって加速主義を「ポスドク小児病postgraduate disorder」と読んだように、人は私を中二病と呼ぶかもしれない。確かに、無力なのにも関わらず格好をつけて偉そうなこと言っている様は、人々の目に中二病と映るだろう。中二病で結構だ。中二病はただの無能ではない。中二病は無能力でありながら、本気で力があるように振る舞う。
▶どんなに無力であったとしても、中二病には「でも」(逆説)がある。
▶冊子は下記で購入可能です。
▶第三号は2023年秋の文学フリマ東京37(2023/11/11)にて刊行されます。
特集は「絶滅の世代」!
アルファベットの最後の数字を刻印されたZ世代は持続可能な社会のために絶滅を夢想する。
乞うご期待!