デイヴィッド・ロデン「エロティックな技術としての侵犯」(訳・櫻井天上火)
「エロティックな技術としての侵犯」
フェイスブックで友人のChaim Mendelが、欲望と侵犯の関係についての魅力的で良い問いを投稿していた。その問いは最近私を悩ませている。
禁じられたものはなぜ非常にエロティックなのか、欲望の本質の中心となる侵犯とは何なのか。
侵犯や倒錯は、単にエロティックなカテゴリーではない。侵犯や倒錯は、肉体的な行為だけでなく、美的、知的な行為も含み得る非常に幅広い分野だ。例えば、私はポストヒューマニズムがそのあらゆる形態において、本質的に倒錯した(侵犯的な)活動であると主張してきた。なぜならそれは倫理的議論を支える、広い意味でヒューマニスト的な枠組みを無効にするからだ。ポストヒューマニズムは倫理的なものではなく、(Claire Colebrookの言葉を曲解すれば)「反倫理的」なものである。政治や生命の未来について議論する際に通常適用される制約を取り除くと、その後には、唯物論的生気論のような脆弱で理論的に不安定な存在論的スキーマだけが残るのだ(「Subtractive-Catastrophic Xenophilia」[ロデンの2019/7/11の記事]と今後の記事を参照せよ)。
しかし、ここでは肉体的な行為に焦点を当てたいと思う。そうすることで理論的な侵犯との類似性や可能な拡張性がありえるかもしれないと言えるようになるのだ。私のChaimへの回答は、レオ・ベルサーニが1986年に出版した『フロイト的身体──精神分析と美学』という素晴らしい本に部分的に影響されている。この本のなかでベルサーニは次のように主張している。すなわち、フロイトの快楽の恒常性理論──その理論では快楽を、生物にとって最適なレベルに興奮を減らすための排出として扱っている──は、エロティックな現象、そのなかでは前戯におけるように、快楽が「痛みを伴う」興奮の増大によって特徴づけられるエロティックな現象に悩まされていると主張している。
そしてもちろん、これはマゾヒズムやサディズムのように、さまざまな形態の痛みが欲望の通貨となるようなエロティックなものとは関係がない。つまり、快楽はすでに経済性の欠如によって印づけられており、エピクロス主義者の節度と健康を求める条例に対応できないひとつの過剰なのだ。性的快楽には、破壊的でありながら快楽的でもある享楽が伴う。ベルサーニにとってこのことは、全く別の快楽の経済を意味している。すなわち、もはや恒常性原則に支配されるのではなく、精神的な解離や「破壊」の経験を求めるマゾヒスティクな欲望に支配される、全く別の快楽の経済を意味しているのだ。
私たちは、精神的な破壊や自己の喪失には過剰な快楽があると仮定しなければならない。これは文字通り行き過ぎた快楽であり、従って(ラカンの言葉で言えば)象徴的秩序のなかに収容できない過剰なもの、すなわち享楽に相当する。このようにエロティシズムや性は、この厄介な快楽に関連づけられている。だからこそ、私のChaimへの最初の回答は次のようなものだった。
侵犯において、私たちは、通常状態で身体とその可能性、性化されている身体の可能性を定義する規範的なよりどころを失うし、流動的なもの、開放的なもの、非人間的でさえあるものとして身体を経験する。
非人間的なものとして身体を経験するということは、非人間的になることや、自分が機械や動物などの特定の種類の人外であるとみなすことと同じではない。とはいえ、機械や動物という人外性の概念的形態はこの体験に関係しているかもしれない。この体験は外的なものの体験、脱自-恍惚の体験であり、私たちが身体を自己認識したり自己記述したりする通常のカテゴリーからの離反を伴い得る。
しかし、このことは次のようなことを私に考えさせる。すなわち、この図式的な回答を心理学的、認知的、あるいは神経科学的なモデルの観点からどのように解き明かすことができるだろうかということを。まず、ラカンが用いた「イマーゴ」の概念から始めることができる。Chatherine Waldbyは、このイマーゴという概念を、身体の現状のオンライン的表象以外のなにものでもない、より身近な身体イメージの概念と区別している(Waldby, 1995. 271, Butler 2011, 43-44)。
イマーゴは、社会的な身体への私たちの期待に部分的に基づいた想像的な解剖学のようなものであり、その期待というのは大きくジェンダー化されているかもしれない。したがって、男性的「無敵さ」という期待は、女性の身体の相対的な貫通性やアクセス性に関するジェンダー的な仮定と対照的だろう。Waldbyの例を挙げると、もし男性の身体を貫くこと(例えば肛門性交)にタブーがあるとすれば、私たちは、肛門への挿入を含む幻想や行為を伴った、エロティックな強度-激しさや快楽の相関的一形態があると期待するだろう。その形態は、男性の身体を貫通者/破壊者などなどとして表象する男性のイマーゴの崩壊(破壊)を伴うものである。
ある意味で、アナル・エロティシズムは、ファルスイマーゴへの一致が最も深く対立する性的快楽である。ファルスイマーゴの要点が、男性性と女性性の想像的解剖学的構造の間の混乱を防ぎ、男性的な力を強化することにあるとすれば、アナル・エロティシズムはこのイデオロギー的身体を爆発させる恐れがある。また、ファルスイマーゴの厳格な境界線と貫通的意図が、男女間の主観的暴力の非相互性を解剖するとすれば、男性身体におけるアナル・エロティシズムは、他者への降伏であり、破壊者であることよりも破壊されることに喜びを見出すようになる。しかし、このような快楽に対するファルスの否定的注入は、あらゆる法と同様、侵犯への誘いでもある。またこのファルスのタブーは、異性愛者の男性にとって肛門のエロティックな潜在性を分散させるのではなく、むしろ強めるかもしれないと思われる(Waldby 1995, 272)。
このように、理想化された男性身体の無敵さが、想像的な境界線を破ることに伴う過剰な快楽のために、侵犯を誘発するのだ。私はデレク・ジャーマンの『セバスチャン』(1976年)を見て多くのエロティックな快楽を感じたことを覚えている。それはまさに、ゲイの男性監督が、男性の身体を柔らかく、多孔質で、(文字通り、結末において)貫通を誘うものとして表象することができるように見えたためだ。この快楽は、(当時、若く、名目上は異性愛者の男性であった)私にとっては驚きであると同時に、強烈で肯定的なものだった。
つまり、ラカンの言葉で言えば、ジャーマンの映画は私の異性愛規範的イマーゴを解体し、新しい想像力に富んだエロティックな可能性をもたらしたのだ。
しかし、これはすべて「うまく機能する」のだろうか。ここでは、超思弁的な話になるのだが、以下に説明しよう。心/脳の予測処理モデルによると、行動、ひいては首尾一貫した自己/動因の感覚は、入ってくる現在の感覚情報の混乱を減衰させることに依存している。この解説における行動とは、次のような一種の説明である。すなわち、脳内の高度な予測モデルが、自分の予測した通りの状況(例えば、欲しいコップをつかむなど)に身体がなることを確実にすることでその予測を確認するための、一種の説明である。
これには、現在の感覚データから得られる身体の実際の状態が軽視される必要があるようだ。これは、現在の行動に注意を払うと、行動を組織する予測スキーマが事実上弱まり、その行動を「窒息」させてしまう理由を説明できるかもしれない(Clark 2015, 213-218参照)。例えば、ピアノで複雑なビバップのワンフレーズを覚えても、演奏中に考えすぎて、特定の箇所でdim9thを入れるべきかどうか悩んでいたら、きっと失敗してしまうだろう(Roden 2019, 521)。このように感覚の減衰ができないことは、分裂症や自閉症と関連する病理である(Clark 2015,223-226)。
では、ここで侵犯はどこに入り込むのだろうか。
おそらく私たちが侵犯するときには、行動を組織したり、行動の可能性を予測したり、感覚刺激を引き起こしたりする高レベルのスキーマを無効にしてしまうかもしれない。おそらく、社会的規範は、私たちがどのように行動したり感じたりするかについての高レベルな予測である超先取りとして具現化されているのだろう。相対的に侵犯的な行動の例を挙げると、合意の上で痛みを(自分または他人が)与えるサドマゾヒズムの行為は、通常、自己または親しい他者(パートナー)を驚きを与える触覚刺激の源として軽視するような、私たちの事前の期待を破壊する。この破壊は、認知システムがそれらの刺激に与える情報的重要性の高まりを伴い、その高まりを私たちは激しさ-強度の増加として感じる。同様の効果は、タブー視されている状況(上司とのデートなど)からも得られる可能性がある。つまり、侵犯とは自己刺激の技術なのかもしれないのだ。
参考
Butler, J., 2011. Bodies that matter: On the discursive limits of sex. Routledge.
Clark, Andy. 2015. Surfing Uncertainty: Prediction, Action, and the Embodied Mind. Oxford: Oxford University Press.
Colebrook, C. 2012a. “A Globe of One’s Own: In Praise of the Flat Earth.” Substance: A Review of Theory & Literary Criticism 41 (1): 30–39
Roden, D., 2019. Promethean and Posthuman Freedom: Brassier on Improvisation and Time. Performance Philosophy, 4(2), pp.510-527.
Roden, D. Forthcoming. ‘Posthumanism, Critical, Speculative, Biormorphic’, forthcoming in the Bloomsbury Handbook of Posthumanism, edited by Joseph Wamburg and Mads Rosendhal Thomsen.
Waldby, C., 1995. Boundary erotics and refigurations of the heterosexual male body. Sexy bodies: The strange carnalities of feminism, pp.266-77
著:デイヴィッド・ロデン
訳:櫻井天上火
https://note.com/b_boogie_woogie/
原文
https://enemyindustry.wordpress.com/2019/08/16/transgression-as-erotic-technology/