オリパラ開催に反対する僕はなぜ開会式を観て、なにを感じたか
僕はオリンピック・パラリンピックの開催に反対している。理由は人道にもとるからだ。市井の病人を増やしうる選択は回避しなければならない。
それでも僕は、オリンピック開会式をTVで視聴した。「開催に反対するのに開会式を観るのは矛盾している」という指摘は、もう至る所でされてるだろうし、それに対する反論もまた聞き飽きているだろう。僕はこう問いかける。
「子をもうけることに反対する夫が、妻の出産に立ち会うのは、矛盾した行為だろうか?」
これ以上深堀りするのは本筋から脱線するので、やめておく。
肝心の開会式の内容は、周知の通りだ。
あまりに苦しく薄っぺらな内容で、観ていて恥ずかしくなってしまっている自分がいた。
そしてきょう、こういった記事がリリースされた。
僕が観たかった開会式、伝統と現代クリエイターとその作品への敬意と愛に溢れた開会式。それは観られたものだったのかもしれなかった。読みながら、悔しい思いが募った。
恥ずかしい、悔しい、この感情…つまるところ僕は、胸を張りたかった。ナショナリスト的義務感からではない。自然な母国愛だ。これこそが僕が開会式を観ていた本当の理由なのだと今ならわかる。そしてせめて健闘をたたえたかったのだと思う。産後の愛妻をねぎらうあの夫のように。
もっとやれることがあったはずだ。開催の判断にしても、式の内容にしても、絵空事ではなく、もっといい選択肢が現実に残っていた。しかし、そうはならなかったのが現実だ。
現実にうちのめされるには、僕はあまりにも若すぎるし未熟だと思う。それでもこうやってがっかりせずにいられないのは、それだけこの国を、ある面では胸を張れる国だと、そう信じていたことの、他ならない証拠だろう。
リークされた開会式初期案を見る限り、それは本当のことだったはずなのに。
ああ、堂々巡りだ。ただただ悔しい。
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