僕の書いた文章など誰も読みたくはない

「本日ハ快晴也」という文は、きょうが快晴であることを伝え、それ以上でもそれ以下でもない。

適切に活用させた品詞をSVOに当てはめると、そこにある種の情報の伝達が任される。
本来、文章とはそういう無機質の連なりである。

人間は根源的にさみしい存在だ。
自分の念慮することは「SVO」程度ではないと、誰しもが心から信じている。
わかってほしい!相手の心を動かしてみせたい!という欲求が、常にわだかまっていている。

文章表現者という生き物は、文章をしたためる際、この欲望を発露させることを憚らない。
格助詞の妙や、体言止め、比喩だとかの姑息な罠を、自らのテクストに蜘蛛の巣のごとく張り巡らせる。そうして「俺の書いた文章が、誰かの感情に作用しないものか」と、その時を今か今かと待ち受けている。
文章による表現とは、明確な悪意を持った罠師が仕掛けた、他者を捕食するための罠なのだ。

「文章表現にそこまでの危害性や悪意はない」と反論されるかもしれない。
だが、実際、ある種の優れた文章は、人の心を捉えて蝕み、動けなくさせ、死に至らしめる。
その機能からして罠そのものである。
殺すとまでいかなくとも、同じことである。
「読み手の心を動かしてみせたい」。聞き飽きた申し開きだ。その綺麗事のベールを剥いでみれば、結局、受け手の感情を腐蝕したいだけだろうに。

それでも違うというなら、問いたい。
なぜお前らは、その文章を、机の引き出しやハードディスクにしまいこむのではなく、人の目に見えるところに出してみせたのか?
その事実こそが、お前らが、他者を喰らうための罠を張っていることの、動かぬ証拠である。

だから結局彼らが追い求めているのは、罠師に求められる洗練である。
具体的に言うと上手な文章表現者は
・罠であることを獲物に悟らせないこと
・美味しそうな餌を用意すること
・獲物の生態と習性を理解すること
以上のことを徹底している。

獲物もバカではないので、下手くそな罠にはかからない。
トラバサミの歯が覗いていたり、餌が腐っているのは、二流の罠師の仕事だ。
上手な罠というのは、罠とは思えないような見事なつくりをしている。ある種の芸術にすら類するもので、抗い難い引力を放っている。
獲物は、どうせ罠にかかってしまうならば、腐肉を漁るよりは、おいしい思いをしたい。
だから、二流が頑張ってみせたところで、思った成果は挙げられないのが関の山なのだ。
天地がひっくり返っても、二流の罠師は一流の罠師に勝てない

さて、僕の話をしよう。

僕は、罠師としての才覚を持たない。一流たりうるほどの訓練も積んでいない。
ゆえに文章表現に努めたところで、獲物に見向きもされない二流の罠師で終わるのが道理だ。
僕が優れた文章を書ける可能性は、文章の一次機能の、SVOを逸脱しない無機質の枠組み内でしたためてみせた場合に、限られてくる。

そうした文章とは、どのようなものになる?
イメージすればいいのは、官公庁のWebサイトに掲載された膨大なページ数のPDFファイルや、説明書や、ガイドラインである。
業務上の必要性以外からは誰も読みたくない、ただSVOが連ねられただけの退屈極まりない文章。ああいう文章に求められるのは、情報の伝達効率、すなわち「いかに読む時間を削減できるか」という一点のみだ。

修辞法・比喩・余韻・空白は害悪である。文量を増し、誤謬リスクを高め、情報伝達を阻害するからだ。

この危険を一切憂慮せず振る舞える者、適切に情報を伝達するどころか、他者の心を蝕んで時間の浪費すらさせることすらできるのが、一流の文章表現者という訳だ。
それはごく一握りの天才であり、僕はこれにあたらない。

このような諸原理からして、僕が書くことのできる文章とは、誰も読みたくない文章なのである。

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