米津玄師「毎日」について
はじめに
今年の4月、企業に就職した。生活のために。もっと卑近に言えば、給料のために。
独立不羈の研究者としてやっていく能がないことを博士課程で悟り、果てに企業に就職した形だ。
ある種の敗北を認め、労働者として、つまり搾取される側として社会へ参画することにした。
大部分の人は、カネを人質に取られた労働搾取の原理に包括されないと、生活できない(資本主義と呼ばれる)。僕もそうだったわけだ。
この原理を覆せるほどの圧倒的な才を持っていれば、話は別だが。
我々はこの原理を無意識で感じて、やれ「働きたくない」だの「仕事はクソ」といった言葉を漏らしながら日々を凌いでいる。
毎日、毎日。
米津氏個人に関して言うと、明らかに、この原理から自由な人だ。
水が高いところから低いところへ流れるのと同じように、鳥が鳴くのと同じように、彼はポップソングを創作する。
そのオリジナリティは、時間と金をかけてでも聴きたいと、人々を魅了する。
そういう人間がこの『毎日』を書き下ろしたのである。
何がメッセージなのか?
正直、先に述べたことが頭に入っていると、「一体何を思ってこんな曲を書き下ろせたのか?」と、米津氏を**したくなる思いすら沸き起こってくる。
"何一つも変わらないもの"という表現は挑発的が過ぎる。
これはふつうは「真実の愛」だとか「大切なもの」だとかを想起させるフレーズだ。
それを毎日毎日……頑張ってきたのに……という反復の後に付着させるとどうか?
「こんなしんどい事を続けて何が変わるのか?」
「頑張ってきたことに何の意味がある?何一つも変わらないのに?」
そしてそれを"まだ愛せるだろうか"と、宣うのである。
このやるせなさは、聴く人を殺せる。本当の意味でのキラーチューンである。
人は仕事を愛するから仕事をするのだろうか?それは先に述べた原理から言っても違う。愛してるからではなく、生活の必要に迫られて、やむなくしているにすぎない。
だって、なぜ仕事でおカネが貰えるのか考えてみれば、それが社会にとって誰もやりたくないけれども誰かにさせないといけないことだからではないか?
誰もがやりたくなることならわざわざ給料を払う必要もない、ボランティアでいいのだから。
そのはずなのだ。
だが、人間は奇妙で、毎日繰り返し付き合う相手を、親愛なる何かだと勘違いする傾向にある。これは一般に単純接触効果と呼ばれる。
仕事も例外でない。
毎日毎日やっていると、自分はこれを愛しているに違いないと錯覚し始め、果てには、本当に愛し、そのためになら死んでもよいとなってしまう。
いつの間にか、手段が目的化するのだ。
仕事を愛する人は決して珍しくない。
珍しくないどころか、社会はそういう人たちのお陰で成り立っている面もある。
例えば、公立学校の教員は、生徒対応や教材研究、成績評価に、ロクな残業代も払われない中で、本当の自己犠牲を払っている。
非常時に出動するような、警察、消防隊、自衛官、そして役所の公務員らは、最たるものだろう。そのときが来たら、彼らは彼ら自身の生活のいっさいをかなぐり捨てて対応にあたる。市民を守るために。
どんな仕事にも、ある局面においては、見返りを求める心のない、無私の個人が顕れてくる瞬間がある。彼らこそ、我々の愛すべき存在に他ならない。
大事なことは、仕事そのものを愛することではなく、仕事のために身を捧ぐことのできる人々を愛することなのである。
米津氏は、物事の本質を嗅ぎ分けてポップミュージックとして提示するスペシャリストであり、彼ほどの人がこのことを分かってないはずがない。
知らずのうちに手段が目的化し、ズタボロになっている哀れな僕らを、彼はこの歌の中で克明に表現して見せる。
つらい仕事の日々、いいかげん耐えられそうにない心と体を、冷笑、酩酊、依存症と、罵詈雑言で誤魔化して、毎日毎日毎日毎日、月火水木金、
この日々を まだ愛せるだろうか
こうして僕たちの膿をさらけ出し、洗い出し、慰めることで、
米津氏ははたらく汝ら自身を愛せと伝えようとしているように思う。
コマーシャリズムとの共存
この曲はコカ・コーラの「ジョージア」に書き下ろされたCMソングでもある。キャッチコピーは「毎日って、けっこうドラマだ」。
CMは、歌詞のえげつなさを全く感じさせない仕上がりとなっており、見事というか、「本当に分かって作ってんのか??」という疑念と怒りすらCM制作サイドに覚える。
制作側は、しっかり、己の内面世界で、歌詞を咀嚼しているのだろうか?
こんなきれいなパッケージングを施すのは、とてもじゃないけど歌詞からして無理があるように思う。
以下、僕の思う範疇で、歌詞のえげつない点を3つほどピックアップする。
やりたいことをやれ、好きなものを突き詰めろ、という昨今にあって、義務や使命でなくて自分らしく光り輝くことこそが、仕事の至上命題となって久しい。
光る人びとが増えたはずなのに、"この世界はあまりに暗い"のである。
あまりに暗いこの世界の一端である。
それにしても石川啄木とメンタルクリニックを融合させるなよ。
(注 "ぢっと手を見る"の元は、石川啄木の名歌。)
ハイホー、ハイホー、仕事が好き。
ここにマッシュアップされる、鬼気迫る「毎日、毎日……!」という叫び。
本当に我々は仕事が好きなんだろうか?
労働者に聴かせるには、実にえげつない内容である。
単にリリースした場合……
労働の搾取構造から比較的自由に生活できているアーティスト様が、労働者どもにとびっきりの皮肉を差し向ける曲として取られてしまうだろう。
しかし、この歌のメッセージであろう「はたらく汝ら自身を愛せ」ということは、大衆に届けなくては意味がない。
そこでこの歌は、労働者応援ソングとして、プロダクトイメージと共にきれいなパッケージングをして、我々に届けられているわけである。
落としどころとして非常に巧みだと思うし、創作はこうやってコマーシャリズムと共存できるのか、と驚かされる。
未視聴の方はぜひご一聴を。