〈往復書簡〉私から、波を起こす 第8便「いつか、マニラ湾で」
第8便「いつか、マニラ湾で」
2024年8月3日
今枝孝之さま
こんにちは。いつの間にか梅雨も明けて、暑い、暑い毎日です。8月生まれだからなのか、子どもの頃から夏が好きで、真夏のカーンとした青空を見ると、それは爽快な気分になったものでした。今の子どもたちは、外が暑すぎて、夏休みに外でぼーっと空を眺めることなんてできないのではないかしら。夏休みに十分に外遊びができない子どもたちを思うと気の毒だし、ここまで極端な気候変動を招く要因の一端を間違いなく自分も担っていると考えると、ひどく残念な気持ちになります。地球の気候を100年前と同じものに戻すには、どうしたらいいのでしょうね。今一番知りたいことのなかのひとつです。
先のお便りでは、旅先でのお話を聞かせてくださって、ありがとうございました。頭の中でそれぞれの 町の風景を思い浮かべながら、とても楽しく拝読しました。私自身はほとんど海外旅行に行ったことがありませんが、遠いところの話を聞いたり、写真を見たりすることは大好きです。ヴェネツィア、ロンドン、カトマンズ......言葉の響きを聞くだけで胸が躍ります。自分が知っているのとはまったく違う風景が、そこには広がっているのでしょうね。陽の光の差し込み方、風の匂い、何もかもがその土地にしかないものなのでしょう。それら個々の町でそれぞれの営みを続けている本屋さんがいる風景を想像すると、なんとなく安心感のようなものに包まれます。どこの町にも、何かを知りたい人、じっくりと思索の世界に浸りたい人がいて、その人たちの友となる本を町の片隅に用意してくれている人がいる。
カトマンズに居る誰かと、日本の田舎町に居る私がこの先出会うことはまあないでしょうが、遠藤周作の『沈黙』を読んだという経験を、長い距離、ひょっとすると長い時間すら超えてわかち合える。それって寂しさの周りに火を灯してくれるようなことだなあと思います。本屋さんはおなかを満たしてくれるわけでもうらやましがられるような写真を撮らせてくれるわけでもありませんが、実は旅する身にとってロマンチックな場所のように思いました。
海外旅行に行かないのは、単純にお金がないからというのと、ぼーっとし過ぎているため、勝手のわからない場所で適切に行動できる自信がないからです。これまで四回海を超えて無事に帰ってくることができたのは、しっかりと私と導いてくれた友人たちのおかげです。彼らがいなかったら、どこかで迷子になったまま永遠に日本とはおさらばだったかもしれません。今枝さんはいくつもの国を旅しているのみならず、ネパールでは一年間現地に滞在して勉強されていたとのこと。頭が下がります。自分の体得しているものとは違うルールで動いている社会で過ごすためには、そこで生きる人々がどのように行動しているのかを観察して、その規範を自分の中に取り入れることが大切なのだろうと思います。「旅の恥はかき捨て」ということわざはありますが、傍若無人にふるまうのと、謙虚に思いやりを持って行動したうえでの失敗は違います。旅も、今枝さんの思慮を培ってきたものの一つなのではないかと、今までのお手紙を思い浮かべながら感じました。
私は根が怠惰なので、現地に身を置いて苦労するよりは、清潔で冷房のきいた部屋で旅行雑誌を眺めながら「アラン島に行ってみたいわ~」と言っているだけで満足してしまう方なのですが、どれだけその国についての本を読んだところで、足を踏み入れなければその土地をほんとうに知ることにはならないと思うのです。飛行機のチケットをとるという行動は、勇気の要ることです。今枝さんは前のお手紙で「相手に向き合った末に傷つく」のが怖いとおっしゃっていましたが、カトマンズの空港に降り立ったとき、あなたはきっとその町に本気で向き合ったのではないでしょうか。そうでなかったとしたら、言葉はもちろん、食べ物も慣習も匂いも違う町で一年間暮らすということは耐え難いことになりそうな気がするのだけれど。
一人では海外旅行に行けそうにもないし、実はあまり行きたいとも思わない私にも、ひとつだけ、生きているうちに行ってみたい、いいえ、訪れなければならないと思っている国があります。
フィリピン共和国。
また、私らしくない場所を選んだなと思われるかもしれませんが、もちろん理由あってのことです。フィリピンは、太平洋戦争中、祖父が兵士として赴いた戦地なのです。
私の祖父は、高等小学校を卒業してすぐに当時の海軍に入隊しました。巡洋艦「熊野」に乗って、初めて戦場に出たのが17歳の頃です。「熊野」は1944年11月アメリカ軍の爆撃により沈没しました。祖父をはじめ、生き残った乗組員が命じられたのが、フィリピン・マニラ市街の防衛でした。フィリピンは当時日本が占領していましたが、連戦連勝で勢いにのるアメリカが同地の解放のためマニラを目指していました。日本軍はフィリピンの支配権を死守するために、いわば兵力の使いまわしをして、捨て身で防衛戦に挑んだのです。1945年1月、アメリカ軍はルソン島に上陸し、2月3日マニラ市内にて日本軍と激突します。当時人口100万人を超える大都市の真ん中で行われた銃撃戦によって、両軍兵士のみならず、多くの無辜の市民の命が奪われました。さらには、占領からの解放を目指すフィリピン抗日ゲリラ兵士との戦いにより、ゲリラ兵士や、ゲリラと疑われた人たちが日本兵によって大勢殺されました。歴史の授業ではほとんど教わることはありませんが、フィリピンも、第二次世界大戦時の日本が踏みにじり、多くの命を奪った舞台なのです。
祖父は17歳で、血みどろの戦いに身を投じました。きっと——必ずと言ってもいい——彼はフィリピンで人を殺したでしょう。自分が生き残るために。それよりも、軍の上層部の命令を真面目に守るために。私はフィリピンの土の上に立って、考えてみたいのです。17歳の少年に、人を殺すこと、しかも可能な限り多くの人を殺すことを強いる権力などというものがあってもよいのだろうか。彼の罪を、後世の、命というものは軽くないのだとの教えを受けることができた人々が簡単に裁くことができるのか。そして、知りたいのです。彼によって殺された人の血がしみ込んだ地を踏みしめたときに自分がなにを感じるのかを。
おかしいですね。祖父がマニラで戦ったのは2月なのに、戦争の話が心に浮かぶのはいつも8月です。日本人は太平洋戦争を振り返るとき、常に8月6日、8月9日、8月15日を基軸としてきたように思います。しかし、そこにいたるまでに、人の命が軽々しく浪費された時代が約4年間続いたこと、その中で多くの人が、ある一日に集約されることのない苦難と悲劇を味わったことを、忘れてはならないと思います。
夏の太陽の明るさとはうらはらに、陰惨なお話をしてしまいました。しかし、太平洋戦争、その戦争における日本軍の加害というものは、生涯をかけて向き合っていかなければならないものだと、私は思っています。いつかフィリピンからマニラ湾を眺めることがあったら、そのときに感じたことを、お伝えできればと思います。
▼著者
村田奈穂(むらた・なほ)
次回、今枝による第9便は、9月上旬に公開予定。
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初回アップ日:2024年8月3日(土)
責任編集:今枝孝之