〈往復書簡〉私から、波を起こす 第12便「次の海へ」
第12便「次の海へ」
2024年11月12日
今枝孝之さま
こんにちは。今日は11月半ばの火曜日。時刻は午前11時です。薄いシャツ一枚を着て、傍らに冷蔵庫で冷やした炭酸水を置きながら、この手紙を書いています。今年は世界中で異常気象と呼ぶことができるような気候のようです。「今年」だけが異常なのか、この異常気象が2024年以降の世界の気象のスタンダードとなっていくのか、今の時点ではわかりません。地球は後者の道をたどるような気がしています。穏やかに波の打つ音を楽しめる人がまた少なくなってしまうのではないかと懸念しています。
先月の、いいえ、この一年間のお手紙、どうもありがとうございました。今枝さんのお手紙を待つ月は、いつもどのような言葉の贈り物が届くのかわくわくし、私からお手紙を差し上げる月は、どのような思いを、どのような言葉でラッピングして贈ろうか頭をひねっておりました。お手紙を交わしていた時間が一年間だとは信じがたい思いです。昨年円頓寺でお会いしたのは、昨日のことのようなのに。今年の円頓寺本のさんぽ道は、もう終わってしまったのですね。
感覚的にはすぐに去り行こうとしている2024年ですが、振り返って見ればお互いの身辺には様々な変化があったのだと思います。
今枝さんには娘さんが生まれて、父親になられるという人生においても大きな転機が訪れましたね。前回のSLOW WAVES sailboatに掲げられた今枝さんのお写真を拝見して、常々おっしゃっていた「海を眺める穏やかな時間の尊さ」というものの意味が、腹に落ちた気がします。幸福、という言葉がそのまま写し出されたような写真を見るにつれ、この幸福が今枝さんのご家族を末永く包むように、そして、このような幸福に包まれた人々が、世界にもっと増えるように、願わずにはいられません。
若いときに見た絵で印象に残っているものに、19世紀フランスの画家、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが描いた「夢」(1883年)というものがあります。旅につかれて月夜野外の木の下で眠る若者の夢に、三人の妖精が現れます。三人の妖精はそれぞれ、愛、栄光、富をもたらすものたちです。古代ギリシアの時代から変わらず、この三人は人間に何を選ぶか、選択を迫るのです。絵の中では、旅人の選択の結果は示されていません。しかし、私は他の人たちが何を選ぶのかに関心があり、時々会う人に、そのことについて尋ねてきました。すると、多くの人が「愛」と答えるのです。
若くて心の貧しい自分にとって、それは鼻白むような答えでした。「愛」というものに対して、自分は鈍感でした。その大切さというものをまったく理解していなかった。それ故、常にそばにあり自分を支えてくれていた愛を、ことごとくないがしろにして、なくしてしまいました。今、人間の真の幸福に必要なのは、まさしく「愛」なのだと感じています。これは、男女間の恋愛に限らない、大きな意味の愛です。どれだけ競争に勝ったところで、莫大な富を得たところで、孤立と憎しみの中で人間は生きていけません。父親になったあなたの姿と言葉も、「愛」こそが幸福であるということを教えてくれたものの中の一つです。
私には夫や子どもといった家族はいませんし、生まれた家の人びとともさして良好な関係を維持できているわけではありませんが、その代わりに、働く中で出会う人たちの愛に支えられていると感じます。私は不器用でどんくさい人間です。社会で生きていくうえで、信じられないような失敗を多数しでかします。自分でも、周囲の足手まといになっているという自覚はありますし、恥ずかしくて逃げてしまいたくなることもたくさんあります。しかし、それでも見捨てずに仲間として迎え入れてくれる人や、私のできないことを助けて支えてくれる人が大勢います。その人たちの愛によって、自分が生かされていることを日々感じます。私は彼ら彼女らの愛に報いなければならない。それには、不格好なりにできる限りよく生きることです。穴ぼこの多い地道な毎日には、栄光の影さえ差しません。それでも、周囲の愛を感じられるようになった今、若いころより幸福だと感じます。
円頓寺商店街で初めて今枝さんに出会ったときに運営していた本屋、「日々詩書肆室」は、2024年5月に閉じてしまいました。私が運営管理に関してさっぱり無力でしたので、完全に自業自得です。日々詩書肆室のために協力してくださった仲間のみなさんや、店を気に入ってくださっていたお客様には申し訳ないですが、出口のない悩みの日々から降りたときには、多少ほっとした気持ちがなかったと言えば嘘になります。
その後は、HIBIUTA AND COMPANYから関連施設のひびうたへ異動となり、前回の手紙で申し上げたように、夏休みの子どもたちと遊んだり、居場所にやってくる生きづらさを抱えた人々の話を聞いたりする仕事をしてきました。毎日やってくる私を、毎日大歓迎してくれる子どもたち。顔を見るなりせききったように昨日あったおもしろい出来事について話してくれる居場所の利用者さんたち。自分の存在が相手にとって喜びであることを感じられる機会がこれまで少なかった自分にとっては、身の内に抱えた氷が少しずつ溶けていくような時間でした。愛、とは、お互いの存在を喜び合える関係性のことをあらわす言葉なのではないでしょうか。
この期間があったから、コミュニティハウスひびうたの2階で新しい本屋「ブックハウスひびうた」を再開することに前向きになれたのだと思います。これまでの明るいおしゃれなカフェの一角とは一転、古民家の屋根裏に位置するひそやかで、しかしあたたかみのある空間があらたな本屋の拠点です。また、新しい本屋では、「詩」を中心に取り扱うことが決まりました。より静かに、より親密に。ブックハウスひびうたは、「わたしらしい」店になっていくのではないかと思います。
11月16日満月の日に、ブックハウスひびうたは船出しました。店内には、ひびうたのイベント「ひびフェス2024」の一環として、居場所に集う人々から集めた「詩」をいっぱいに展示して。オープン日の夜、店の床にキャンドルを灯して、詩の朗読会を行いました。老若男女、身を寄せ合うようにして、じっと揺らぐ炎を見つめ、静かに語られた言葉に耳を澄ます。キャンドルの炎の揺らめきを見ながら、ふと今枝さんのお手紙を思い出しました。「誰もが穏やかな時間を大切にして、ゆっくりと自分だけの織り物の模様を生み出せる」――。今目の前に見ているこの光景こそが、今枝さんの言葉を現出したものであり、それは「平和」な時間そのものなのだということを、強く感じました。
今枝さんは、ご家族と一緒に海から離れた新天地へ移られるとのこと。不思議と、新しい航海の時期が重なりましたね。
海は、穏やかなときばかりではありません。荒れ狂う大波の中を、とにかく身を伏せてやり過ごすという時期もあるでしょう。荒天も凪の日も含めて、それでもあなたのこれからの航海が、しあわせで実りあるものでありますように。
そして、対岸で小さな船を漕いでいる友のことを、時々思い出してください。
一年間、ほんとうにありがとうございました。
▼著者
村田奈穂(むらた・なほ)
---NEWS---
この連載が本になります。
2025/02刊行『SLOW WAVES』issue04に掲載予定。
詳しくはSNSでの続報をお待ちください!
1年間の連載にお付き合いくださったみなさま、ありがとうございました。
初回アップ日:2024年11月24日(日)
責任編集:今枝孝之