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〈往復書簡〉私から、波を起こす 第9便「海をめぐる命たち」

第9便「海をめぐる命たち」

2024年9月1日

村田奈穂さま

こんにちは。最近は台風が心配ですが、8月は連日の猛暑で、昼間は外に出る元気をすっかり失ってしまいました。涼しい部屋に閉じこもり、オリンピックと甲子園を見ていたらいつの間にか終わってしまいましたね。
この暑さでは親御さんたちも子どもを外で遊ばせたくはないだろうなと思いつつ、自分は自分で子どものころは外で遊びまくっていたので、それができない今の子どもたちには正直、不憫に思ってしまいます。当人は涼しい室内でゲームなんかをやっているのが当たり前なのかもしれませんが、外で遊ぶという選択肢を子ども自身が知らないうちに奪っているわけですから、温暖化はどうにかしなくてはいけません。ガソリン臭い車も、あと数年でどんどん駆逐されていくのでしょうか。

先日のお手紙、自分が経験してきた異国での日々を思い返しながら読んでいました。
異国の規範を自分の中に取り込み、なんとか運用していく、ということ。
カトマンズでは、僕は現地の家庭にホームステイして、食事を共にし、異国の家族の暮らしというものを経験しました(裕福なご家庭だったので、過酷なことはなかったですけどね)。それだけではなく、留学先の友人と遊んだり、日本語学校でお手伝いをして、そのつながりの人と交流したり。とにかく全身で“異国”を浴びていました。
異なる文化と接することは、コーヒーにミルクが混ざってまろやかなカフェオレになるように、新しい素敵な姿を生み出してくれる時もあれば、水が油をはじくように、頑として交わらないときもある。

カトマンズでの暮らしを始めた時は、いよいよ異国での暮らしが始まるという高揚感に胸が満ちていました。しかし高揚感というのは目隠しのようなもので、実際に日々を重ねていくと、高揚感は現実の重みに侵食されてなくなっていき、その奥にあった本質が少しずつ見えていく。
正直に言いますが、ネパールでは、受け入れがたい考え方や、人との接し方に出会うこともありました。それをうまく受け入れたり、消化したりできなかったのは、二十歳そこそこの自分が今よりも分別がなくて、判断する力や物事を見定める力がなかったことも大きな原因です。とにかく僕が今、ネパールに関する活動を何もやっていないのは、そのときの「生半可な気持ちでは、関わり続けていくことはあまりにもむずかしい」という気持ちが影響しています。

たしかに、カトマンズでは時に傷ついて、それはかさぶたになっていった。そして、新たな皮膚ができていったのかもしれないな、と思います。傷は、新しい自分に出会わせてくれるという良さも持っているんでしょうね。
今でもネパールで出会った人々とは交流が続いているし、大切に思っています。あのころよりは、たとえほんのちょっとでも、分別がつくようになったいまの自分としてまたあそこで学ぶことができたら、もっと素直に、貪欲に、いろんなことを取り入れられたのかもしれません。
ふとしたとき、カトマンズの、あの独特の甘い匂いを思い出して、そんなことを考えます。

さて、太平洋戦争のこと、驚きながら拝読しました。村田さんのおじいさまが「熊野」に乗られていたこと。そしてその沈没後は、マニラの戦地にも立たれていたこと。
17歳の少年が激烈な市街戦に参加せざるをえなかっただけでも、戦争の非道さを示すには十分すぎるほどです。市街戦に至るまでの道のりも、すでに暗雲が立ち込めている感が深い。

そのマニラに、村田さんのおじいさまが立たれていた。戦後79年が経ち、自分とお手紙を交換している方のご家族が、南方の戦闘につながっている——戦争は自分と無関係な話ではあり得ないと、また強く思い知らされます。
僕の祖父は戦場には出ていかなかったと聞いています。だからか、不思議と「自分の祖父母の世代はギリギリ戦地に送られていない」という感覚があったことに気づきました。しかし、いま改めて数え直すと、村田さんのおじいさまと僕の祖父はほとんど同じ年齢です。
戦争の経験は、紙一重。そう思います。

ところで、海を越えていった「熊野」とは異なりますが、海を越えてきた戦艦について話をさせてください。

僕の出身地である日立市は海に面しているのですが、戦時は軍需工場があり、終戦直前に連合軍の「艦砲射撃」を受けたと、幼いころから聞かされていました。

艦砲射撃。米英海軍の戦艦が海辺の街へやってきて、陸の上へ砲弾をぶち込んだのです。本土の被害として、空襲はイメージしやすいものだと思いますが、艦砲射撃は釜石や日立など、東日本の被害が多いものなので、全国的な知名度はないのではないでしょうか。

僕は、艦砲射撃があったことがもっと知られるべきだと思っています。自分の街から一番近い海辺に、交戦中の国の戦艦が何隻もやってきた。遠い海上とはいえ、目線の合う高さに、戦争の脅威が近づいていたのです。

すなわち、上陸の恐怖。

実際に艦砲射撃の頃は、米軍が上陸するという噂が広まっていたそうです。そんな噂を耳にしたら、誰だって肝が縮み上がるに決まっていますよね。
そういう話を家族に聞かされても、大人になるまでは、あまりよくイメージできませんでした。しかし、それこそ海外に遊びに行って外国の大きな船を見たり、いくつかの国で戦争資料館を訪れたり、現に今起きている戦争をニュースで見たりして、少しずつではあるけれど、想像できるようになってきたと思います。

高台にある実家からいつも見えていた海に、巨大な船が現れて、火の玉を放つ。
日立に艦砲射撃があったのは深夜で、しかもその日は大雨だったそうです。数百発の砲弾は工場を狙ったものの、多くが狙いを外して人家に着弾しました。雨が屋根を打つ音をかき消しながら、夜空を真っ赤に燃やして、すぐそこに落ちていく砲弾の数々は、恐怖以外の何物でもなかったでしょう。そんな思いは誰一人、経験する必要のないものです。

テレビでも、SNSのタイムラインでも、ガザやウクライナのニュースは流れ続けています。
世界唯一の被爆国・日本がこれまで上げてきた声は、残念ながら各地の武力行使、武力衝突を思い止まらせるには至っていません。21世紀に入って四半世紀が経とうとしている今もなお、世界では血が流れ続けています。

村田さん。私事ではありますが、先日メールでお知らせしたとおり、7月の末に第一子となる長女が生まれました。

抱っこした腕の中で僕の顔を見上げる我が子の顔を見ていると、うれしさと愛おしさで胸がいっぱいになります。
そんな我が子を抱きながらニュースを見ていると、時として、悲惨な戦争の今を知らせる映像が流れてきます。それを目にするにつけ思うのは、「子どもに絶対に戦争を経験させてはいけない」ということです。

自分の子として生を享けたこの子に、世界は素晴らしい、うつくしいと思ってもらわなくてはいけない。それが親のつとめだと思います。
そのためには、子どもにものごころがついてきたら、「戦争は起きてはならないこと」なんだということを、しっかり伝えていくことが第一歩であるはずです。

僕自身が子どもだったときみたいに、「艦砲射撃があった日はね…」なんて言われてもしばらくはわからない、でもその話を、とにかく聞かせてあげる。それがきっと大事なんだと信じることにしました。
大きくなってから「あのとき聞かされた」、と思ってもらうこと。わからなくても聞かせなくてはいけなかったということに気づいてもらう、そうやって「重み」を伝えていくのが、風化を防ぐということであるはずです。
歴史は、重みを失えば軽くなって、一瞬で風に消えていきます。
先人たちが、思い出したくもない記憶と戦って、僕たちの世代までつないできた記憶を雲散霧消させるわけにはいきません。

話を聞き、話を聞かせる。
村田さんがおじいさまのマニラでのことをお話してくださったことも、フィリピンの土を踏むことへの思いをこうして明らかにしてくださることもそうです。それが、戦争経験者を身近に持つおそらく”最後の世代”として、僕たちがしていかなくてはいけないことなのだと思いますし、だから村田さんから前回のお手紙をいただいたときは嬉しかったです。

今は娘が生まれて間もないので愛知にいますが、落ち着いたら日立にも子どもを連れて帰るつもりです。ここまで書いてきたように色々と自分なりの思いもありますが、いざ初めて、目の前いっぱいに広がる海を見てもらう時には、ここに戦艦が来ただとか、兵器工場があったのだとか、そういうことから始めるのではもちろんなくて、まずは海のきらめきを目に焼き付けてほしい。海はきれいなんだと思ってほしい。世界のうつくしさのひとかけらを知ってほしい。
そして、僕の育った海を好きになってほしいなと、心から願っています。


▼著者
今枝孝之(いまえだ・たかゆき)

「SLOW WAVES」主宰・責任編集。1995年、茨城県日立市生まれ。東京での出版社勤務を経て、2022年より愛知県常滑市在住。2023年、『SLOW WAVES』issue01/02を刊行。5月にissue03を刊行。

次回、村田さんによる第10便は、10月上旬に公開予定。
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初回アップ日:2024年9月1日(日)
責任編集:今枝孝之




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