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悲劇の科学者 ラエ・リン・バーク 後編

取材・執筆:下山進

アルツハイマー病研究の地平を変えたワクチンAN1792の開発に参加したラエ・リンは若年でアルツハイマー病を発症する。ラエ・リン・バークは、病の進行を逆にすることを信じてAN1792の第二世代の薬の治験に入ることを決断する。『アルツハイマー征服』の著者下山進が描く「悲劇の科学者、ラエ・リン・バーク」その後編。 

 リサ・マッコンローグは、ラエ・リンの口からその病気のことを告げられた。

 ラエ・リンは、まず職場の上長にそのことを報告している。

 すると上長は、「残念だが退職してほしい」。だが、すぐにではない。ラエ・リンが申請してすでに支給されていた研究費のプロジェクトが続いている間は、在職してほしい。しかし、研究所の中では、病気のことを言ってはいけない。そう言われた。

 ラエ・リンがアルツハイマー病だとわかると、グラントの支給が打ち切られることもありうるということからだった。

 ラエ・リンはショックをうける。そのことを誰かに話さずにはいられなかった。その相手に親友のマッコンローグを選んだのだった。

 マッコンローグも信じられない思いで聞いていた。

何よりもいつも「何か困っていることはない?」と聞いていたラエ・リンがやがて何もわからなくなって誰も助けることができなくなるということに苦しんでいる、リサはそう感じた。

リサ・マッコンローグ。ポスドクの時期をUSCFで過ごし、ラエ・リンと知り合う。
1988年にアセナ・ニューロサイエンスに就職。写真は80年代

闘士として

 ラエ・リンは、2008年8月までSRIインターナショナルに勤めたが、職場でアルツハイマー病のことを明らかにしたのは、退職のパーティーの時でのことだった。

ラエ・リンにとっては、科学と離れることは何よりも辛いことだった。夫はUCSFで研究を続けている。自分だけが家にいなくてはならない。

 ラエ・リンは、こうしたなかで新しい生きがいをみつけようともがく。

 週に一度、アルツハイマー病の患者の集いに出てみることにした。

 そこで行われているのは、写真をとることだったり、陶芸をすることだったりした。動物愛護協会での簡単なボランティアというのもあった。

 ラエ・リンはそうした画一的なアルツハイマー病患者の扱いに腹がたった。

 ある日のミーティングで堪えきれずにこう発言する。

「これは間違っている。私たちは闘士にならなくてはならない。戦わなくてはならない。自分は研究者としてHIVのワクチンについて研究していた時に、患者の団体とも接した。彼らは戦って、自分たちの病気についてもっと積極的な治療をするよう要求をしてその地位を勝ち取った。我々は自分たちの病気について、もっと人々の理解を得るよう努力しなくてはならない」

 ラエ・リンは、様々なところに出かけて積極的に講演をし、自らの病気のことを語るようになる。

 自分が開発を手伝ったアルツハイマー病の根本治療薬の第二世代の治験に入っていることも、積極的に明らかにした。

 UCSF時代からの親友であるリサ・マッコンローグは、ラエ・リンが科学のことになると、ほとんど病気を意識できないクリアな思考を展開することに驚愕していた。

 が、奇妙なことに日常のちょっとしたことができないのだ。

 レストランでリサが、自分のキャリアについて相談をすると、的確このうえないアドバイスをする。が、勘定を支払うというだんになって、そもそもその支払い方がわからない、といった具合だ。

 科学者たちのパーティーにも、ラエ・リンは引き続き出席していた。そこで、話しかけられる。そこでのうけこたえは見事だ。が、家への帰り方がわからない、といったことがおこる。

ラエ・リン・バークとリサ・マッコンローグ。2018年。

時代に厳しく制限された治験

 ラエ・リンが入った治験の第二世代の薬「バビネツマブ」は、先駆者ゆえにその条件が厳しく制限されることになる。

 まず、フェーズ1で治験に入った患者の脳のMRI画像に異常が見られた。画像を見ると、脳の血管に浮腫が見られるようだった。しかし、患者の症状はほとんどない。

 フェーズ1では、体重1㎏あたり、0.5ミリグラム、1.5ミリグラム、5ミリグラムの三つの投与量が試されていたが、この副作用が出たことがわかると、ただちに5ミリグラムの投与は中止された。

 この異常は、アミロイド関連画像異常(Amyloid–related imaging abnormalities)、と名付けられる。

 浮腫には血管に微細な出血をともなうものもあった。この副作用を恐れて、フェーズ2での最高投与量は5ミリグラムから2ミリグラムまで下げられた。

 しかし、ここでもARIAが出たのだった。

 症状のない患者もいたが、頭痛、昏迷、吐き気、歩行障害などの症状がでる者もいた。投与をやめて数週間で、これらの症状は治癒し、MRIの画像異常も数カ月もするときれいになっている。

 ARIAは、投与量が多いグループほど高頻度で出た。0.15ミリグラムのグループで3.2パーセント。1ミリグラムのグループが10パーセント。2ミリグラムになると26.7パーセント。 つまり、4人に1人は、ARIAの症状が出た。

 治験において投与量の刻みをどうするかは、生命線ともいえる議論だ。

 バピネツマブのフェーズ3に進むにあたってエラン社の中で議論は沸騰した。

 すでにフェーズ2の結果でも、認知機能の改善についてははかばかしい結果はでていなかった。これは用量が少なすぎたということではないだろうか。

 しかし、そもそもフェーズ1で、5ミリグラムでARIAが出たので、2ミリグラムにしたのだ。袋小路だ。

 が、薬を開発したデール・シェンクが、エラン社の会議で、1ミリグラムまで投与量を下げることに同意をしたことで、フェーズ3での最高投与量は1ミリグラムまで下げられる。シェンクが同意したのは、AN1792の際、重い副作用を出したことが脳裏にあったからだ。

 この10年後の「アデュカヌマブ」という薬のフェーズ3では最高投与量は10ミリグラムで、「バピネツマブ」の10倍だ。そして「アデュカヌマブ」ではこの高容量の群で効果が出たことで、昨年7月の承認申請まで行ったのだ。

 そのことを考えれば、「バピネツマブ」も、高容量であれば、効いたかもしれない。しかし、ARIAが深刻な副作用でないとわかるのは後のことで、それをうけて、「アデュカヌマブ」ではフェーズ2から10ミリグラム投与を試し、抗体薬で初めて認知の評価項目を達成した治験薬となった。

「バビネツマブ」の治験は時代に厳しく制約されていたのである。その治験にラエ・リン、バークは入ったということになる。

どのような治療効果もなし

 リサ・マッコンローグは、バピネツマブのフェーズ3の最高投与量が2ミリグラムから1ミリグラムに下げられたことを聞いたとき、低すぎるのではないかという不安を感じていた。

 しかし、このことをいちばんよくわかっていたのが、ラエ・リンだった。この薬は効いていない、そうラエ・リンはわかっていたとリサは言う。

 ADAS-cogなどの認知機能を測る検査の数字はおちていなかったが、夫のレジス・ケリーはその秘密を知っていた。検査の前日、ラエ・リンは質問項目を予測して練習をしていたのだった。

 バピネツマブの治験は、2007年12月からアメリカの170のサイトで2012年4月まで続いた、コードブレイクは2012年7月。

 その結果は誰にとっても残酷なものだった。

 代表的な治験サイトのひとつだったブリガム・ウィメンズ病院のレイサ・スパーリングはニューヨーク・タイムズの取材にこたえてその結果をこのように表現していた。

「治験にあらかじめ設定された目標は達成できず、認知的な効果も、身体的な効果もどのような治療効果もなかった」

 この失敗は、すでに経営状態が悪化していたエラン社の息の根を止めることになる。まずただちに研究開発部門が閉じられ、2013年には会社自体が買収されなくなってしまった。

他の治験薬には入れず

 バピネツマブの失敗のあとレジス・ケリーは妻のために、他の治験に入れないかどうかを調べてみた。しかし、一度ある抗体薬の治験に入ったものは、他の抗体薬の治験には入れないようになっていた。薬の影響が一定程度続くために新しい抗体薬の治験に入れないのだという。

 別れの時が近づいてきた。

 2017年のハロウィーン。リサは、ラエ・リンをつれてサンフランシスコの街を歩いていた。

 友人の家で大きなパーティーがあり、そこに行く前にラエ・リンと仮装のための衣裳を買おうとしたのだった。ハイト・ストリートを歩いた。ハイト・ストリートはブエナ・ビスタ・パークからくだる長い坂道だ。

 本屋があったので、入ってみた。ラエ・リンは、本を眺めて不思議そうに手にとってみている。こうして二人はよく本屋によって、科学の本を手にとり、おしゃべりをした。

 その本屋を出て少し歩くとお目当ての店「Decades of Fashion」が見えてきた。この店には、1880年代から1980代までのフアッションが、時代別に売られている。

 二人は吸いよせられるように、1980年代のコーナーにいた。

 1980年代、われらが時代よ。

 UCSFのとびきり優秀な学生たちに混じって、遺伝子工学の最前線に自分たちはいた。二人は若く美しく、不可能なことはないと信じていた。

 ラエ・エンはきらきらと光沢で光るブルーのワンピースを手にとった。試着室にリサが案内する。ゆっくりとラエ・リンは歩く。店員のせかせかした歩き方にはついていけない。もう自分で服を脱ぐことも着ることもできなくなってしまったが、ラエ・リンにそのドレスを着せた時に、リサは思ったのだった。

 この美しいドレスに包まれて微笑むこの女性はまぎれもなく、ラエ・リンだ。

施設に入る

 家では睡眠が細切れになり、夜中にしょっちゅうおきては、自分の寝場所を探すようになった。夫のレジス・ケリーは週7日、24時間体制で、ケアテーカーを雇わなければならなくなった。その費用はばかにならなかった。

 もう、夫とは話をすることはなくなった。

 夜が大変だった。

 ワインを飲んだりすると、ラエ・リンは深夜に起き出して「ここは自分のベッドではない」と家中を自分のベットをもとめてさまよい歩くのだった。

 日中に大学での勤務のあるレジス・ケリーにとっては夜寝れないのは辛かった。休日も、一言も発しない妻と2時間も、3時間も向かい合っていなくてはならない。

 妻を施設にいれるしかないとレジス・ケリーは決断した。

 しかし、いい施設を探そうとすれば、年間12万ドルは必要だ。そうでなければ、公共の施設を利用することになるが、そうした施設は、患者のことを十分にはみてくれない。

 レジス・ケリーは家を売る。売って妻の施設の費用のたしにした。現在も、UCSFの仕事はやめられない。

 その施設は息子の家から車で10分の距離にあった。自分は息子の家の光のささない地下室に住むことになった。

 週末は施設にいる妻のもとに通う。

「やあ、僕は君の夫、レジス・ケリーだ」

 そういうと顔が一瞬輝くように見える。しかし、すぐにもとのようになり、自分が誰かがわかないようだった。

 孫娘をつれていったり、オペラが好きだったラエ・リン・バーグのためにオペラ歌手を呼んだりもした。

 レジス・ケリーは学校であったことを、妻に話す。が、独り言を言っているようだ。

レジス・ケリー。2020年4月。訪米し、ラエ・リン・バークの施設に案内してもらうはずだったが、新型コロナウィルスの感染が拡大したためZOOMでの取材となった。

コロナ禍をへて

 2020年4月からは、新型コロナウイルスのために、面会自体がかなわなくなった。レジス・ケリーは妻とZOOMで会話をしようと試みたが、ラエ・リンにとってパソコンをあやつることははもう不可能だった。

 一年近い面会禁止期間の間に、ラエ・リンの病状は進んだ。

 もう、自分で食事をとることは不可能になり、介助が必要だった。2、3語言葉を発することはあるが、意味のあることを話すことはできない。

 2度のワクチン接種をうけ、面会禁止がとけ、ラエ・リンを外につれだせるようになったのはつい最近のことだ。

 レジス・ケリーは、先日、私にこうメールをしてきた。

<彼女の素晴らしかった知性はどこかに去ってしまった>

 だが、レジスはこうも書いている。

<彼女の美しさと優しさは、今も変わらない>



証言者・主要参考文献

Lisa McConlogue, Regis Kelly, Reisa Sperling

Alzheimer's Drug Fails First Big Clinical Trial, By ANDREW POLLACK, The New York Times, Jul 24,2012

Two Phase 3 Trials of Bapineuzumab in Mild-to-Moderate Alzheimer's Disease

Stephen Salloway, M.D., Reisa Sperling, M.D., Nick C. Fox, M.D., Kaj Blennow, M.D., William Klunk, M.D., Murray Raskind, M.D., Marwan Sabbagh, M.D., Lawrence S. Honig, M.D., Ph.D., Anton P. Porsteinsson, M.D., Steven Ferris, Ph.D., Marcel Reichert, M.D., Nzeera Ketter, M.D., et al., for the Bapineuzumab 301 and 302 Clinical Trial Investigators

The New England Journal of Medicine January 23 2014


下山進

ノンフィクション作家。著書に『アメリカ・ジャーナリズム』(丸善)、『勝負の分かれ目』(KADOKAWA)、『2050年のメディア』(文藝春秋)、『アルツハイマー征服』(KADOKAWA)、『2050年のジャーナリスト』(毎日新聞出版)がある。サイエンスについては、編集者だった時代から興味をを持ち、ジェニファー・ダウドナの『クリスパー 究極の遺伝子編集技術の発見』(文藝春秋)をノーベル賞受賞の2年前に出版していたりした。元慶應義塾大学総合政策学部特別招聘教授。上智大学文学部新聞学科で「2050年のメディア」の講座を持つ。

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