オープンデータが導いた画期的判決 “常識”を覆した大川小裁判とは
一審ではとにかく「負けることが許されない」
齋藤弁護士
だいたい国賠訴訟の裁判官の判断というのは、「現場過失一本主義」というんだそうですけど、とにかく現場でそこにいた公務員の過失が認められれば判決が書けるから、それ以外のところはいらんということなんですね。
一審の裁判官は、すでに自動車学校の事件の判決(注:宮城県山元町の自動車学校で津波で亡くなった従業員や教習生の遺族が学校側を訴えた裁判)で学校の責任を認めて、まさしく現場過失一本主義の典型的な判決理由を書いている。そういう裁判官だったので、吉岡さんと最終準備書面を書く時に、「どうかねー、事前の過失で闘うと負けるかもしれんねー」といって。とにかく負けることが許されないので、やむを得ず現場過失に注力して、判決を勝ち取ったということなんですね。
それでもなぜ事前の過失を盛り込んで主張していたのかというと、遺族の皆さんが最初に吉岡さんに相談に行った時に、避難マニュアルの不備とかそういう点をかなりおかしいと訴えておられたからで。何とか形にしなきゃいけないと議論しましたが、一審ではそれを中心にすることができなかった。
ところがですね、私、吉岡さんから誘われて現場行ったりいろいろ調べたりするうちに、あ、これは「河川遡上津波」だと。
“気づき”のポイントは40年前の記憶
一番、記憶にあるのが昭和58年に日本海中部沖地震が起きて、私、たまたま新潟県の村上の支部に、上野駅から特急に乗って向かっていたんですが、一つ手前の駅で止まっちゃいまして。その日は帰れずに新潟に泊まって夜テレビを見ていたら、村上川を白波を立てて津波が遡上してくる映像が出てですね、びっくりしました。
あ、こんなふうにしてのぼってくるんだということを、すっごく鮮明に覚えていて、やっぱりここがポイントだろうと。新潟地震の時も信濃川を津波が遡上していますし、十勝沖地震もそうですし、たくさん起きている。
で、過去に起きているのに、なぜ災害の防災や訴訟で問題にならないんだろうと思って調べていくと、要は巨大な堤防があると大丈夫だという安心感があるんですね。
ところが吉岡弁護士は欠陥住宅とか地盤の日本で一番の専門家ですので、そういう議論をして調べていくと、堤防というのは結局、地面の上にのっかっている。長いと100キロ、200キロで、あれだけ巨大な構造物を一定の品質を保って造れるわけがない。底から揺すりますから、堤防というのは壊れるものなんですね。そこに津波がのぼってくるわけですよ。あ、これだ、と思いましてね。
国土交通省に存在していたデータ
だとすると、川をのぼってきて、堤防が崩れたり、穴が空いたり、亀裂ができたりして、学校に被害が及ぶことを何とか論証できそうだぞということを考えていったわけですね。
控訴審ではそこが争点になったものですから、昭和53年の宮城沖地震の時に北上川の堤防のどこが壊れたか、どのように壊れたかを調べた。
吉岡弁護士
実は国土交通省が、地震のたびに一級河川のどこが壊れているかというデータを全国の土木事務所で押さえているんですよね。(注:後の吉岡弁護士への取材では、情報公開請求で容易に入手可能なデータだとのこと)
齋藤弁護士
過去のデータと今回の東日本大震災で壊れたところを、吉岡先生が一つ一つ指摘をしていった。同じところが、同じように壊れているんですよ。そうすると予見可能性はあってもおかしくないねって議論になって。
裁判所は宮城県が今後起こるであろうと予測した想定地震と想定津波、これを予見可能性の対象とした。というのも、そういう歴史的な経過や客観的な証拠があるからなんですね。控訴審では、どうもこれは組織的な意味での対応に裁判所が興味を持っているぞというのが分かったものですから、その辺を補充していったということになります。
吉岡弁護士
今回の大川小学校の児童たちが、三角地帯という高台に向かって避難しようとしていたのですが、実はそこが地震のたびに壊れているというデータがあるんですね。
そういうものをどうしてもっと明らかにしないのかと。そういうデータを教育委員会や校長が共有しあっていく中で、適切な避難場所がどこかということ、それから河川のどこが一番弱いのかというようなことが分かってくる。
そういうことを裁判所に訴えていくことで、地震があった後、何分後に避難したかという話じゃないんだとこれは。もっと前に分かっていることなんだという立証の仕方ですね。
石巻市側、宮城県側は組織的過失が問題になっていることを最後まで理解していなかったのではないかと思えるような、反論なり主張しか出てこなかった。「予見可能性はない」「結果回避可能ではない」この二点に集約されることをずっと繰り返していたといえるような主張でした。言っては悪いが本当にこれで最高裁を闘うつもりなのかと。本当はもっと重要な論点があったかもしれませんけれど、その点には全然踏み込んでない。
ハザードマップを信じてはいけない
吉岡弁護士
市側、県側の「予見可能性がない」という主張の裏付けが二つあって、一つはハザードマップです。大川小学校の手前700mまで津波はくるけど、小学校にはこないというハザードマップを根拠に予見できなかったと。
もう一つは第三者検討委員会でまとめた資料が乙一号証、つまりが被告側の証拠として用いられた。遺族の方々は5000万も使った第三者検討委の報告書が結局は予測できなかったとする向こう側の証拠に使われていることに非常に憤慨していました。その二つを繰り返し主張しているということなんですね。
ハザードマップをどう考えたらいいのかという問題があって、高裁ではハザードマップは誤りであったというところまできちっと言ってくれた点では非常にありがたいんですが、一般的には津波ハザードマップを守っていればそれでいいという認識が強いですよね。
ですからやっぱりハザードマップは判断要素の1つでしかなくて、それを信じるだけではダメだということも、これから強く訴えていかなければならないことだと思います。
「組織的過失」の大きな意義
高裁になってですね、裁判官は開口一番、一審判決を見直しますと言って、われわれひょっとして負けちゃうのかなと一瞬思ったんですが、その見直すという意味が、平時からの組織的過失、つまり地震が起きる前の、遅くとも1年前の段階で、子どもを守る立場にある教育委員会や市長や校長が、それぞれの立場でできる最大限の義務を履行していなかった、そこに落ち度があるんだということでした。
非常に画期的なわけですね。現場の公務員の過失ということになりがちなんですが、それを組織として全体で過失があるという論理構成は今までの国家賠償事案にはなかった。もしこれが可能ならば、学校防災だけじゃなく例えば企業での問題が起きた場合とか、バスの転落事故が起きた場合だとか、安全に関する事故や被害が起きた時に、現場ではなく経営陣が罰せられることになっていくと。
果たしてこれが最高裁で維持できるのかと齋藤さんと心配していたのですが、最高裁もこの論理構成を認めてくれた。そういう意味でほっとしているところです。
先生の資質に左右されるのではなく
齋藤弁護士
想像してみてください。非常に有能な先生がいて、知識経験もあって予見可能性もあり、判断力もある。そういう学校だったら早く山に逃げろと子どもを逃がすことができる。だけどそれは個々の先生の資質に左右されてしまう。どういう先生がいるかによって子どもの命が助かるのか助からないのかが分かれてしまう。こんなことが教育現場で許されるのかというのが、本件訴訟の正面から問われていることの1つなんですね。
事前にみんなで議論してマニュアルだったり避難訓練だったりを準備しておけおけば、現場にどんな先生がいたってそれに従ってやればみんな助かると。こういうことなんですね。これを高裁判決は正面から言ったと。ここに重要なポイントがあるんです。これをぜひ強調してほしい。
ところが、控訴審判決が出てもその点がきちんと理解されていない教育現場が多いということです。だから先生、あなたがたのために高裁がこういう判決をしたんですよというのがポイントなんですよ。
これ学校の先生と子どもだけじゃないんです。亡くなった方には近隣住民もいます。バスの運転手もいます。それから子供がスクールバスで帰ってくるのを待っていて、帰ってこないので逃げ遅れた保護者もたくさんいます。事前の対応がきちんと取れていれば、おそらく連絡網にしろなんにしろ、あるいは運転手さんにしろ子どもを乗せて高台に移動しろということが指示がされたはずなんですね。
司法の判断、在り方を変えてゆくかも
他の分野でもこういう考え方が汎用性を持っていくかもしれません。例えば東京大学名誉教授の河上正二先生が、中田裕康先生の古稀記念の論文集の中でこの事案を取り上げて、組織過失の応用例として医療過誤の訴訟なんかでも十分に汎用性をもって語ることができるんじゃないかとご指摘になったりしていますので、今回の判決によってそういう分野でも法的な判断のツールとしてこれからどんどん裁判所の判断を積み重ねていく可能性を秘めていると思います。
吉岡弁護士
被害者側に立証責任を負担させるという今の日本の裁判システムですね、唯一例外が水俣病の時に、チッソ側にこの水を飲んでも体に障害を負わせないんだと、企業側に立証責任を転換したという事案があるだけで、どんな事案でも被害者が立証しなきゃいけない。
本件のように津波で流されてしまって証拠がないのに、被害者側が立証しろと。それでわざわざ測量してですね、裏山に上がるには1分かかるんだということを立証しなきゃいけないなんてどう考えてもおかしいですよね。
それからあなたのお子さんの命が何千万ですよと、ちょっとした高級外車ぐらいの値段しかつけられないというそんな馬鹿な話ありますか。そういうことからすると、災害の被害者救済の在り方はどうあるべきなんだろうかということを、大川小問題を契機に抜本的な法体系の見直しをしてもらえないかとつくづく思いましたね。
齋藤弁護士
司法が被害者の思いなり訴えをどのように受け止めるか。本件は裁判所が寄り添ってくれたということを遺族が感じることができるような、そんな訴訟だった。これはとても大きな意味があったと思います。
「第三者委員会」の在り方も問われている
吉岡弁護士
第三者検討委員会ではですね、生存した先生に3回にわたって事情聴取をしているんですよ。ところが一切資料は出してくれない。だからわれわれ一度も、その生存した先生の証言を聞き取る機会がない。
それから河北新報が書きましたけど、当時グラウンドで50分間待たされていて、その間に父兄が迎えに来て助かった子どもたちがたくさんいるわけですね。その証言内容を市教委がなんと廃棄しているわけですよ。そんな馬鹿なことがありますかと。
そして校長が携帯(で教師とやりとりしたメール)を消しました。どうしてすぐに教育委員会なり市の方が押さえて事実を知ろうとしないのかと。そういう中で裁判を勝ち抜いていかなきゃいけないと考えたら、あまりに被害者側に酷ではないか。
第三者検討委員会の在り方とか、どれだけ事実を押さえるため国の制度として確立しているか。そういうことをきちっとしておかないといつまでも被害者側が困難な中で場合によっては負けてしまう。そういう状況が生まれているところを、なんとか皆さんのペンで暴いていただきたいとお願いしたいところです。
取材・撮影:熊田安伸