エゴをつかまえた日
自分のエゴを手なづける。
自分の機嫌を自分でとる。
それをすればいいことは分かっているのに
どうしても越えられない壁があった。
あと少しなのに、どうすればいい?
「誰も人を傷つけることはできない」
自分が傷つけられたと感じるのは
それを自分が選択しているから。
理屈では分かるような気がするものの
なかなかその壁を越えられない。
私はとにかく自分自身を観察することにした。
まずは一歩ひいて自分を観察すること。
それを心がけて日々を過ごしていた。
心が動いたとき、
「あ、いま心がこう感じているんだな」
とひたすら観察する。
感じていることに飲み込まれないように
ただ、心の動きを見る。
そんなある日
私はよく自転車を駐輪所に置いたあと、
鍵を取るのを忘れて、つけたまま
家に帰ってきてしまうことがある。
そしてつけっぱなしにしていたはずの
鍵が自転車についておらず、
何度か鍵をなくしてしまうことがあった。
(これも、鍵をつけっぱなしにしていたこと自体が勘違いかもしれないし、私が鍵を単純に家の中でなくしてしまっただけかもしれない。真実はわからない)
誰かのせいにしたい私は
「誰かが鍵をとったんじゃないか?」と
周囲に疑いの目を向ける。
そんなふうに考えていると、
すれ違う他の住人に疑わしい人を見つけてしまう。
それまでも、自転車が停めた方向と反対向きになっていたり
車輪の泥除けの部分がへこんでいたりすることがあったので
誰がやっているんだろう…と
なんとなく自転車にはナーバスになっていた。
その時の私が疑いの目を向けたのは
独身の若い女性だった。
いつ挨拶しても返事をせず
こちらを向こうともしない。
うちには小さい子供がたくさんいるので
きっと煩わしく思っているんだろうな、と
勝手な被害妄想までしていた。
その日も、すれ違ったので挨拶をしたところ
やはり返事はなかった。
「あの人が私の自転車の鍵をとったんじゃないか」
と、腹立たしく思ったところで
「ハッ」と気づいた。
私、あの人のことを犯人にしたいんだ。
そう気づいたとき、
「これがエゴの声なんだ」
と、わかった。
ヘナヘナと力が抜けていくような気がした。
挨拶をしないのも、耳にイヤホンをしているから
聞こえないだけなのかもしれないのに。
目を合わせないのは、別にそうする必要性を
感じていないだけかもしれないのに。
勝手に不快になって、勝手に
被害者になっていたのは私自身だった。
これがエゴの仕組みかーーー
何かがポロっと頭から落ちた気がした。
あの人が私を怒らせる
あの人が私を不快にさせる
誰かが、あの人が…
そんなことはありえない。
何かに怒りを持っているとしたら
それは自分自身の問題なんだ。
そう思えたことは、私にとって
本当に大きな気づきだった。
今でも怒ったりムカついたりすることはあるし
エゴ丸出しで生きているときも多々ある 笑
でも、その仕組みが分かっただけでも
私にとっては大きな収穫だった。
どんな気分で過ごすかは
自分で選択できるということが分かると、
とても生きやすくなるんじゃないかな。
それが自分軸を取り戻すひとつの手段だと思う。