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読書会の魅力について

作品について背景知識をもとにうまく語っているコンテンツはネット上でも書籍でもいくらでもある。しかし、読書会ではそうではない。ぼくも含め、参加者多くの人は背景知識を持っていない人である。
そしてつっかえながら、回り道をしながら、話す人がいる。そして、それを皆がよく聞いてくれる。その空間がぼくは好きだ。
まあ、ほかの読書会はわからないが、少なくとも、ぼくの読書会ではそういう空間でありたいなと思いながら主催をしている。

ぼくは作品の前では誰もが平等だと考えている。ある作家に対してすべて作品を読んだ上、評伝も読んだ人と、その作家の作品は一つしか読んでない人とが同じ土俵で話せる方がいい。知識量で上下が出てくるのは避けたい。

そもそも作品の正しい読みができるのは、その作品の背景、作者について知り尽くした人なのだろうか?さらに言えば、その作品を作った作者にしか、作品のことはわからないのだろうか?
例えばルイス・ボルヘスの『伝奇集』という短編集の中に、『『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール』という作品がある。この小説は文芸評論の形式をとっており、セルバンテスの『ドン・キホーテ』そのものを書こうとしたピエール・メナールという作家について書かれている。

彼は別のキホーテを作ることーそれならたやすいことだーを望まず、あの『ドン・キホーテ』そのものを作ろうとした。彼のねらいがけっして原本の機械的な転写をつくることにあったのではないことはいうまでもない。彼はそれを写そうとしなかった。彼の素晴らしい野望はー単語と単語、行と行とがーミゲル・デ・セルバンテスのそれと照応するようなページを作ることにあったのである。

ピエール・メナールがやったことは、セルバンテスの母国語スペイン語を学ぶ、カトリックを信仰する、17〜20世紀の歴史を忘れる、そして極めつけはセルバンテスになることでドン・キホーテを生み出そうした。しかし、これでは簡単に「ドン・キホーテ」書けてしまうということで、今いったやり方をすべて退け「ドン・キホーテ」を書こうとする。

つまりピエール・メナールはセルバンテスと同じ思考になることで「ドン・キホーテ」を書こうとしたのだ。それは、計算と答えのように作品づくりを考えているのだ。しかし、ぼくたちがいくら調べて前提知識を得たとしても、作品を100%の完全体で汲みとれない。それは、作者自身であってもそうだ。作品を書くとき、すべて100%コントロールできないからだ。

この作品の無意識、言語化できない領域を掴むには知識があることよりも、前提知識がないことのほうが有利に働くことがあると思っている。人は一貫したテーマや思想で語ることもあるが、まったく突拍子もないような無方向性もある。それをを正しく掴むにはゼロの立場で語ることも必要になる。

これは作品だけではなく、人と接するときも言えるだろう。何か前提知識をもとに人を評価するより、ゼロの立場からその人が何を話しているか、どういうリズムなのか、どんな仕草をしているのかでみるほうがその人をわかることもある。

読書会ではそんな立場を尊重したい。

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