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梶井基次郎「檸檬」1主催者の感想
読書会では、自身の体調と世界との関係についての話になりました。体調の良し悪しで世界が変わってしまうことがあります。例えばぼくも、疲れている時は他の人がしていることー普段は気にも留めないようなことーが妙に鼻につくように感じ、時には怒ってしまうことがあります。ぼくたちは、体調という自分の意志ではコントロール不可能なものに影響されて世界を感じ、それによって行動せざるを得ないようです。昨日の自分と今日の自分は一貫した連続性の中にいるように感じていますが、体調によって自分が変容し、過去の自分とは切断されてしまいます。
デカルトの心身二元論(世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方。)の批判の一つに、心と身体は明確に分けられないのではないのか、という指摘があります。確かに今まで述べたように、思ったことについてそれが自分で考えものか体調によるものかは判断が難しいです。言い換えると自分の意思でコントロール可能な領域と不可能な領域の境界は非常に曖昧です。もしかしたらそんな境界なんてないのかもしれないし、全てがコントロール不可能なのかも知れない…。このコントロール不可能な部分をぼくは他者と呼んでいます。
作品の中に出てくる「えたいの知れない不吉な塊」とは自身の内部に存在する他者を指しています。この「えたいの知れない不吉な塊」について考えるにあたり、参加者から梶井基次郎が出した書簡の一節を紹介していただきました。
精力、精力、願わくば神経衰弱と精力と共存せよ
神経衰弱と精力と共存、どちらもぼくら自身にとっては他者ですが、社会にとっては神経衰弱はマイナスに精力はプラス(マイナスなこともありますが…)に整理されてしまいます。神経衰弱は日常生活を送る上で、不都合だと思われがちです。神経衰弱を共存するとは、社会的に不都合だと思われる他者を排除せず整理せずに見つめること、その状態で世界を見つめることになります。
お話ししていく中で、神経衰弱はマイナスかプラスか、二項対立で分けられないのではという考えになりました。確かに神経衰弱では日常生活はおくりづらくなりますが、神経衰弱になることで世界の見方が変わり、普段気づかなかったものが見えるようになる、世界の複雑さ、残酷さ、豊かさを知れるようになります。それは決してマイナスなだけではありません。
文学について考えるとは、自由について考えることと同義だとぼくは思っています。子どもは自由な存在です。ですが、大人になるにつれ社会が要求してくる、画一的なものに嵌め込まれ、整理され、それ以外のものは排除され、時には忘れ去られてしまいます。しかし、排除されたものの中にもしかしたら、本当は大事なものがあったかも知れません。
今回も皆さんと作品を読んで共有することで、深遠なものを感じることができました。
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