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みんなサークルを作ろう!

「ゆっくり本を読む会」のnoteを作って2周年がたった。この会の創立をいつにするかは色んな解釈の仕方があると思う。例えば最初にnote記事を上げたとき、最初に読書会を開催したときなど。まあでもとりあえず会を立ち上げて2年ぐらいたった。1年ぐらい活動していない時期があったけど。

この2年間で主に読書会を中心で活動してきた。けど、この「ゆっくり本を読む会」は読書会だけのサークルではない。ぼくのnoteの記事や、podcastや、今後フリーペーパーを作ったり、同人誌作ったり、ぜんぶ含めて「ゆっくり本を読む会」だ。

「ゆっくり本を読む会」は定義づけのできないサークルにしたい。ぱっと見、サークルの本質がなさそうで、実は全ての活動がゆるーく、つながっているようなそんな活動をしていきたい。

ウィトゲンシュタインは『哲学探究』の中で、「家族的類似性」という概念を提出している。僕たちが使っている言語のルール――『哲学探究』の中では言語ゲームという言葉を使っている――は確固たる不変のルールがあるわけではなく、どんどんルールを変更、拡張される。それをウィトゲンシュタインは家族(居候、ペット、ヤクザの親分子分)のように拡張可能なことから「家族的類似性」という言葉で表している。ぼくらには言語ゲームのルールは認識できない。

類似性は、重なりあい交差しあいながら、複雑なネットワークをつくっているのだ。スケールの大きな類似性もあれば、細部についての類似性もある。

『哲学探究』66 丘沢静也訳

「ゆっくり本を読む会」とはAである。

家族的類似性のもとでは以上のような主語に主軸を置く定義づけよりも、

Aは「ゆっくり本を読む会」である。

主軸が述語におくようになる。そうなると以下のようなものが無限に続く。

Bは「ゆっくり本を読む会」である。
Cは「ゆっくり本を読む会」である。
Dは「ゆっくり本を読む会」である。


すべてバラバラのように見えるが「ゆっくり本を読む会」の下ではすべてがゆるーくつながってる。

ぼく自身はこのサークルをやる前は色んなことをやってきた。演劇や英語、プログラミングなどなど。全てがやりきれず中途半端に終わってしまい、後悔、徒労感など、自分って何をやってもやり通すことができない人間なんだなと自己肯定感を下げていた。

しかし、「ゆっくり本を読む会」を立ち上げたことにより、下がった自己肯定感に対して、少しでも自分を肯定できるような試みができるのではと考えている。今までぼくのやってきたことは一貫性はなかった。だから何も蓄積できていない気がしていたのだ。
しかし、今後は「ゆっくり本を読む会」の中でやりたい事をやれば、すべてこのサークルの血肉なると考えている。

それは、ただやりたい事をやるだけではない。何か新しい事をやる時に「ゆっくり本を読む会」に適合できるか考える。例えばプログラミングをやってみたいなーと思ったら、早朝読書会用のアプリを作ればいい。まったく関係ないDJイベントだって「ゆっくり本を読む会」用に何かしら要素を追加したり、変換できると思う。

これはぼくが「ゆっくり本を読む会」を創作しているのではなく、「ゆっくり本を読む会」からぼくに対して指令がくるのだ。何かしようと思った時、「ゆっくり本を読む会」とぼくで以下のような対話が発生するのだ。

ぼく:英語を勉強したいんですけど。。。
ゆっくり本を読む会(以下「ゆ」):やってもいいけど、この会の中でやるんだったら、少しでも今までやってきた事と繋がりは残してね。
ぼく:うーん、どうしましょう。
ゆ:Project Gutenberg(海外版の青空文庫)から何か翻訳しながら、英語力を向上させてみては?読書会とも少し繋がりあるし。
ぼく:そうしましょう!

みたいな。

みんな何かしらのサークル立ち上げてみてほしい。みんながどんなサークルを立ち上げて、活動していくのか見てみたい。

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