11/24 早朝読書会 芥川龍之介「或旧友へ送る手記」 レポ
読書会をやってみて
芥川龍之介「或旧友へ送る手記」の読書会を5名でやりました。
この作品はその名の通り、芥川龍之介が自殺する前に書いた手記です。「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」という言葉は有名ですね。
今回じっくり読んで気付いたのですが、情緒に訴えかける文章ではなく、かなりシステマティックな文章だと思いました。〈マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。〉と書いてあるように、具体的にどのように死まで至るのかが書いています。システマティックなので特に深刻さがありません。
〈我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。〉と書かれているように芥川龍之介も死が怖いらしいです。動物として生きるうえで、死に対してリミッターがかかっていると言ってもいいでしょう。その死のリミッターを外すためにどのように思考してきたか、その過程が書かれており、最後ある自信に達したらしいです。〈これは数箇月準備した後、兎に角或自信に到達した。〉
特に印象的だったのは〈この(死)スプリング・ボオドの役に立つものは何と言つても女人である。〉という箇所です。死のリミッターを他者を利用してはずさせるという作戦ですが、かなりよいと思いました。自殺以外の行動もそうですが、他者をエンジンに駆動するとかなりドライブがかかり、倫理を乗り越えることができます。
シモーヌ・ヴェイユは以下のように言っています。
例えば恋人や国や思想のために死ぬ、人を殺す、というのは他者を駆動に動物的リミッターを超え、行動するということです。いや、リミッターを超えずともぼくらは他者を起点として行動しているのかもしれません。その意味で人間は利己主義者にはなれない。
芥川龍之介は自殺する理由を「唯ぼんやりした不安」とし、具体的なものを示しません。自殺の理由だとみなされる「生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛」というような具体的な理由は「それは動機の全部ではない」と退けられます。この「唯ぼんやりした不安」は梶井基次郎の「檸檬」の中にあった「えたいの知れない不吉な塊」と似ています。「檸檬」では檸檬を爆弾に見立てるテロによって現状を打破しようとしましたが、芥川龍之介は自殺によってこの現状を終わらせようとしています。
「唯ぼんやりした不安」や「えたいの知れない不吉な塊」のようなものを抱えることがあるかもしれません。そんな時、芥川龍之介がとった自殺や「檸檬」の主人公の至ったテロの2つを解決を取ることはできませんが、そこに至った過程を学ぶことは何かしら意味があるように思います。
もしかしたら悪い方向に進む可能性もあるかもしれませんが。
ご参加いただいた方の感想
Masatoさん
経験等に基づく読みの解釈の妥当性が個人的に認識できた。
次回
不定期で開催します。