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8/4 早朝読書会 宮沢賢治『なめとこ山の熊』1 レポ

読書会をやってみて

宮沢賢治『なめとこ山の熊』の読書会を6名でやりました。

今回は最初から「〜くろもじの木の匂においが月のあかりといっしょにすうっとさした。」まで読みました。
この作品は、淵沢小十郎というマタギの大男?と熊たちの話です。

読書会では作品に出てくる宮沢賢治?自身の語りに着目しました。語り手が出てくるシーンがあまりないので、ぼくは一人で読んでいるときは気づきませんでしたが、注意深く読むと語り手の一人称が「私」から「僕」に変わるところがあります。

ほんとうはなめとこ山も熊のは自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれどもはそう思うのだ。

冒頭では一人称が「私」となっています。ここの部分は物語に入る前の導入部分であり、状況説明のパートです。「私」もメタ的な語り口となってます。

それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の顎あごのとこから胸から腹へかけて皮をすうっと裂いていくのだった。それからあとの景色はは大きらいだ。

物語に入った後、熊を解体するシーンでは一人称「僕」を使っています。

一人称が「私」から「僕」に変化したことをどう捉えればよいのでしょうか。「私」と「僕」の役割について、上野千鶴子と加藤典洋との対談(「戦後と女性――その崩壊と創造」『接近遭遇: 上野千鶴子対談集』所収)にて、上野が男性が使用する〈ぼく〉に対する批判を補助線として考えていきます。

私はね、だいたい〈ぼく〉という一人称を使う男性はみんな嫌いなんです(笑)。まず第一に甘えを感じますからね。(中略)〈ぼく〉ということばを使うことによって、そういう男性たちはいわば自分の立っている位置の特権性を、社会化された〈私〉から隔離されたところに確保するという戦略を取っています。

「私」とは社会の中で位置付けられた点であり、対して「僕/ぼく」(漢字で「僕」と書くか、ひらがなで「ぼく」と書くかでニュアンスが少し違いますが)は社会から隔離されたところある自分を表現しています。社会的な「私」を語るとき、自分とは分離し、浮遊した位置から話すようになると思います。『なめとこ山の熊』の冒頭のメタ的な語りはそこから来ています。
宮沢賢治の作品なんで誰もほんとにあったことだって思わないのに、わざわざ「人から聞いたり考えたりしたことばかり」というのは、社会的に

更に上野は以下のように続けます。

私が〈ぼく〉という一人称を使う男の人に対して反感を持つのは何故かというとね。〈ぼく〉という私的な一人称は、普通私的な文体に使いますね。ところが私的な文体の中で公的な事柄を書くとしたら、それは、公的な事柄と私的な事柄のけじめを踏み外すことによって、私的な世界の中に公的なものを取り込んで、そういう中で泥沼的な処理をする、という甘えの構造の中で書いている気がするのでそれが嫌いだったのです。

『なめとこ山の熊』ではこの公的なものと、私的なものとが入り混じっています。作品は不特定多数の人達に触れた段階で公的なものとなります。しかし、熊を捌くシーンについて「それからあとの景色は僕は大きらいだ。」といってしまう部分は私的な語り口だな、思いました。

ご参加いただいた方の感想

匿名希望さん
 母熊と子熊の会話を小十郎が聞いたシーンでは、参加者の数だけ視点や 印象がさまざまでした。こちらの読書会で、自由に「私はこう思う。」と言い合える時間が味わい深かったです。
 その中でもとりわけ、次の方のご意見が心に響きました。
 「小十郎は、少し前に妻と子を赤痢で亡くしていたという事実が書かれていた。 身内を亡くした彼の心情が母子熊に投影されているのかもしれない。」
 僕と私についてのお話しも、新鮮な視点ですね。文章になったのを読んで振り返るのも、みなさんと過ごした時を切り取ってもう一度満喫したような充足感がありました。

次回

8/11 宮沢賢治『なめとこ山の熊』2


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