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映画「ラジオ下神白」とケアの問題

私たちにとってなくてはならないものの一つに「困っている、傷ついているあの人を手助けしたい」という感情がある。この感情が自分自身に備わっていること、他者にもその同じような感情があるという共通認識によって、人とつながることができるのだ。社会は市場――需要・供給の関係――のみで形成されているわけではない。もちろん市場は社会を形成すること、人が生きていく続けることに欠かせない。しかし、そこにおいて人は取り替え可能な存在としてしまうのだ。なので、その市場の外があるということ、そこで一人ひとり承認されることが社会にとって重要な構成要素となっていく。その外をつくるために、利害関係から離れるために「困っている、傷ついているあの人を手助けしたい」という感情が必要な気がしている。

しかし、――すくなくともぼくにとってだが――「困っている、傷ついているあの人を手助けしたい」という感情を満たすのは難しい。いつもなにかがたりないような、無力感のような、ズレてしまうような、とりちがえているような、ほぞをかむような、思いをしてしまう。それは、その困っている、傷ついている相手との関係性によらず、よく知っている近い相手だとしてもーーいや、近い相手だからこそーーそのような思いに至ってしまうのだ。そんな思いになったとき、どうせ私は人を助けられる器ではなかったのだと居直り、他者と関わらず無関心モードになる。その無関心の領域にいることで、自尊心を保ち、安全な位置にいることができるからだ。しかし、その領域にいる限り自分が世界に触れている、生きる手触りという実感を持つことはできないのだ。

なぜ、満たされないのだろうか。
哲学者・批評家の柄谷行人は『探求Ⅰ』にてコミュニケーションを「話す―聞く」から「教える―学ぶ」、「売る―買う」のモデルで考えることを提案している。「話す―聞く」というモデルは共通の規則(コード)をもっており、私が話している言葉を相手が理解しているということを想定している。しかし、本当は共通の規則を持っていることが例外的で、殆どの場合――その相手が自分の言葉が通じない外国人、子どもでなかったとしても――それを持たない相手であるのだ。「話す―聞く」はというのは他者がおらず、対照的な関係に対し、「教える―学ぶ」、「売る―買う」は非対称的な関係である。そして、「教える―学ぶ」常に命がけの飛躍を必要としている。コミュニケーションは、伝わるか伝わらないかの間で伝わる方を信じて跳ぶ、ある意味信仰のようなものである。
ぼくが思うにこの命がけの飛躍は、常に失敗することを運命づけられている。相手に100%自分の思いを伝えるのは不可能であるからだ。
そのことを踏まえると、「困っている、傷ついているあの人を手助けしたい」という感情から行動し、他者とつながるときはどうしても「与える―受ける」のような非対称的なモデルを構築してしまうのだ。

映画「ラジオ下神白」を観た。

この映画は福島県復興公営住宅、下神白しもかじろ団地を舞台にしている。2011年に発生した福島第一原子力発電所事故の影響で浪江・双葉・大熊・富岡町は現在においても帰還困難区域に指定されており、そこから避難してきた方々が暮らしている。文化活動家のアサダワタルは、住人の方々に昔の思い出とそのとき好きだった音楽を聞き、それをラジオ番組にしてCDにして配布する活動をしている。その活動の一環としてメンバーを集め「伴奏型支援バンド」を結成し、クリスマス会を開催し、住人の方々の歌に合わせて演奏する。
そこにあったのは時間の経過とともにぼくの関心が薄らいでいた、福島第一原子力発電所事故後の現在の姿があったのだ。

この映画を観ながら「困っている、傷ついているあの人を手助けしたい」という感情やケアについて考えた。臨床心理学者の東畑開人は著書『居るのはつらいよ』の中で、ケアは与えることだけではなく、受けることも相手をケアしていることになると言っている。ケアの空間は一方的なものではなく相互的なもの。与えることが受けることになり、受けることが与えることのように、非対称的な関係が曖昧になるような空間である。

映画の中でバンドメンバーの一人が今までやってきた福島の支援について、なにか常にやりきれなさを感じてたことを吐露する。常に支援を「与える側」に居続けることに辛さがあったのだろうと想像する。「与える―受ける」の一方的なモデルでは物質的な欲求、食べるものと寝るとこは満たされるが、精神的な傷は満たされない。この「与える―受ける」の非対称のモデルからいかに離れることができるのだろうか。
映画ではその回答のヒントのようなものがある。それは、制作と歌を介して発生する特権的状態である。

まず、制作について。支援者が住人の方々にお話を聞き、それをもとにラジオ番組を作成している。この個別具体的なものを尊重しながら、一緒に制作していくことで、「与える―受ける」の非対称の関係が曖昧になっていくのだ。住人の方々の個別具体的な話がラジオ番組になり、CDにされ、この世界に影響を与えることができる。政治哲学者ハンナ・アーレントの『人間の条件』にて人間の営みの一つである、制作(work)を耐久性のある物を製作し、それを通じて世界を変更する営みとしている。制作により世界に触れているという、生きる手触りが回復される。

次に特権的状態について。歌を聴いているとき、歌っているとき、その一瞬だけ人はある種の特権的状態にいる。この一瞬の特権的状態いるとき人は歴史的、市場的、日常的な文脈から、いわゆる共通の規則から切り離されるのだ。そして、いつもあった非対称的な関係からも切り離される。
歌自身は複製され、市場で流通したものであるが、その歌を聴いているとき、歌っているとき、その歌が複製されたものであっても、個別的な思い出が付与され、そこから特権的状態に入ることができる。
日常が歴史に接続されている限り、歴史によってつけられた傷は日常生活に影響を及ぼしてしまう。その傷と対峙すること、原因を探ることも大事なことであるが、傷と向き合いすぎるとさらに傷を深めてしまうことがある。特権的状態では傷が完全に回復することはないが、傷に関係する文脈から離れることにより、傷とゆるやかな関係を結ぶことができるのだ。

この映画は福島第一原子力発電所事故の現在の支援の状況を表していると同時に、私たちが直面するケアの問題に対してどのようなアプローチができるのかその一例が描かれている。ぼくたちの持っている「困っている、傷ついているあの人を手助けしたい」という感情を満たし、他者とどうつながりその傷を癒やすことができるか、ここにあるヒントから考えていくことができるだろう。

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