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梶井基次郎「檸檬」2主催者の感想
今回読んだ箇所から「身体性の回復」ついて考えました。主人公は檸檬を手にしたことにより、その温度、重さ、匂い、触覚、たぶん作品には書かれていませんが、たぶん見た目から酸っぱさも感じとったのだと思います。檸檬から、自身の外部から内部への侵入、侵食を感じたのでしょう。また主人公は肺尖カタルを患っており、常に熱のある状態で、夢と現実の境界が曖昧な、常にふわふわした中にいる状態だったと思います。ふわふわとした中では、生きている手触りを見つけるのは困難であり、それが心の抑圧になり、「えたいの知れない不吉な塊」が自身の心に対して、不安定なものを生み出していると思いました。檸檬は、そのふわふわとした空間の中から、視覚、嗅覚、触覚などを頼りに、地に足をついた現実感の回復への鍵となっています。
身体性や現実感の回復について、例としてリストカットがあります。社会学者の大澤真幸は『不可能性の時代』においてリストカットは「現実逃避」ではなく「現実への逃避」というような言い方をしています。リストカットをする人たちは痛み、ある種の生きる手触りを求めて、自身の身体を傷つけるそうです。そして、傷つけることにより、不安が少し解消されるのでリストカットへの衝動が慢性化されます。この作品での檸檬もリストカットも身体内への異物の侵入として機能しています。主人公は肺尖カタルにより、常に体は熱を帯びている状態であり、そこに冷たい檸檬を触ることにより、低い温度が身体の内に侵入してくる。また檸檬の鼻を撲(う)つ匂いも鼻から侵入してきますし、強烈な黄色も眼から侵入してきます。この異物の侵入による、身体の反応として、冷感、匂い、色への認識がありそれが身体の機能への実感=生きる手触りに繋がります。
主人公が「風景にしても壊れかかった街」とか「雨や風が蝕むしばんでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街」が好きなのも象徴的であると思いました。人間が作ったものが異物の侵入により崩れかかっている、そこに美を感じると言います。異物の侵入とは連続性からの躓き、不連続なものです。
精神医学等ではサリエンシーという言葉があります。サリエンシーとは「突起/突起物」を意味する言葉ですが、精神生活において興奮状態をもたらす、未だ慣れていない新しい強い刺激のことをさします。人間の脳は大量の情報を処理していますが、脳の負担軽減のため、日常よく接しているもの(連続性)についてはスルーする傾向にあります。そして、脳の負担の大きいサリエンシーについてはできる限り避けるように行動し、もしサリエンシーに出会った場合にはなんとかしてそれに慣れようとする傾向があります。なので、サリエンシーのない、安定した状態は人間にとって理想的な生活環境だと思えます。しかし、実際そうした状況が訪れると、周囲にはサリエンシーはないものの、心の中に沈殿していた痛む記憶がサリエンシーとして機能し人間を苦しめるそうです。そして、外側からサリエンシーを与えると内側からのサリエンシーは解消するそうです。(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』)
『檸檬』の主人公の肺尖カタルは最初は外側からのサリエンシーとして機能していましたが、それが常態化していき、内側からのサリエンシーとして主人公を苦しめています。これが「えたいの知れない不吉な塊」の正体のようです。そして、檸檬という外側のサリエンシー出会うことにより、内側のサリエンシーが収縮していく、精神医学の過程のように思いました。
人の矛盾は異物を避けるように生きているが、異物が全くない状態では生きていけないところにあります。『檸檬』では主人公以外の人間は全く出てきていません。自分以外の他者は常に異物として機能する可能性を秘めています。主人公はそれが耐えられないのだと思います。しかし、異物は必要としてしまう。それが檸檬となって現れているような気がします。
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