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オープンダイヤローグについての現時点での雑感

2/16にオープンダイヤローグの会をやるので、現時点でのオープンダイヤローグのイメージを残しておく。
オープンダイヤローグを知ったのは2年前、ある読書会に参加したときに初めてきいた。そのあと別の人文系の集まりでも、結構頻繁にオープンダイヤローグの話が出てきた。
話を聞いたあと、ぼく自身は熱心にオープンダイヤローグについて追っているわけではないため、今のオープンダイヤローグのイメージはほぼ、そこできいた話でできている。
なのでオープンダイヤローグについてぼくはあかるくない。しかし、読書会を企画したりすることでオープンダイヤローグに近いようなことは考えてきたような気がしている。またなにか生きづらさを感じたときオープンダイヤローグ的な考えがヒントになるのではと思う。

社会は「医者」→「患者」、「教える」→「学ぶ」、「売る」→「買う」、「与える」→「与えられる」など非対称性に満ち溢れている。しかし、非対称性について厳密に考えていくとその構造は無理があることがわかる。たとえば「教える」→「学ぶ」の構造について考えていくと、教える側は学ぶ側より上位に置かれており、どうしても抑圧的に機能してしまうのだ。
その非対称な構造から解き放たれた対話の場は如何に構築可能か、そのヒントのようなものがオープンダイヤローグにはあると思っている。

また「他者」と如何に接するか、もオープンダイヤローグを通じて考える事ができる。ここでいう「他者」とは自分以外の他の人というだけでなく、物、自然、社会、経済、身体、自分の無意識など、自分の意識ではコントロールできないものを指す。自身には絶対に到達できない領域に対して、それを理解し征服するのではなく、わからないものをわからないままにしておくためにどう他者と接していくかが重要にになる。それは「わからないから、理解しなくていいや」というような居直りではない。「わかろうとする意志」と「わからない領域」との間を行き来することだと現時点では考えている。

オープンダイヤローグについては以下の2冊の本を読んでみた。

『対話のことば』の中であった「《体験している世界》を内側から感じる」「《多様な声》が生じる場にする」「《新たな理解》を一緒に生み出す」は、ぼくも、オープンダイヤローグを知る以前からなんとなくふんわり考えてきたことがオープンダイヤローグをきっかけで「自分がそんな場をつくるにはどうすればよいか」考える方向性を示してくれた。
『対話の言葉』はパターンランゲージについて書かれている。パターンランゲージとは対話の本質を言語化しまとめるため、成功事例から共通パターンを抽出し、実践に役立つ方法を共有可能とするものである。

また『感じるオープンダイヤローグ』では実際のオープンダイヤローグの手法よりも著者の経験であったり、オープンダイヤローグを体験してみての感想が中心に書かれている。明確な手法よりも「感じる」こと、ことばやあたまで理解するより対話という経験を通して如何に感じる事ができるかがオープンダイヤローグにとって大事なことであるとぼくは読み取った。

2冊の本を読んでみて、『対話の言葉』はパターンランゲージという手法を中心に書かれているのに対し、『感じるオープンダイヤローグ』では体験を通じた「感じ方」を中心にそえている。方法と体験についてもオープンダイヤローグを通じて考えていきたい。


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