「ボルトカッター持ってきて」(20200417)
フィオナの新譜が配信された! とても嬉しい。嬉しいので朝から晩までイヤホンとスピーカーで流し続けている。
20年前のアルバム『真実』のキャッチコピーからしてすでに「私は音楽。ジャンルは、フィオナ・アップル」だった彼女の音楽は、それから20年経ってさらにジャンル:フィオナ・アップルを一人で切り盛りしているように見える。きっとほとんどの曲は自宅でレコーディングされたのだろうと思う、たまに犬の鳴き声や生活音がする。『TIDAL』や『真実』を歌っていた頃とは全く違う、もっとハンドメイドで自由な音になっていた。そしてやっぱり、一言では説明できないアルバムだった。
何と言ってもジャンルはフィオナ・アップルなので。
正直、29歳になってもフィオナの新しい音楽を自分が聴いているとは思わなかったし、フィオナがまた新しい音楽を作ったのだということもまだ信じられないでいる。それでも今部屋を埋め尽くしている音楽はフィオナで、そのピアノとメゾソプラノの歌声は12歳から聴いてきたものだ。
それにしてもなぜ私はフィオナを聴き続けているのだろう。時々本当に不思議で、わからなくなる。1ミリでもタイミングがずれていたらきっと一生聴かなかった歌手だろうと思う。鬼束ちひろやCoccoは数パターンの人生を歩んでみたとしてもどのみち必ず巡り会うような気がするが、フィオナだけは私にとっては交通事故にも似たような存在だ。なぜ聴いているのだろう。何が、どこが、好きなのかと訊かれてもよくわからない。いまだによくわからない。
何と言ってもフィオナ・アップルなので。
今日は朝から気持ちが穏やかで、『若草物語』を読み進めてから会社に行った。絵に描いたような美しい物語を読もうと思えるということは、少なからず穏やかであったのだのだろう。
月曜日はテレワークになったので、また会社のパソコンを持って帰ってきた。またフィオナの音楽を聴きながら仕事をしようと思う。
最近ほとんど財布を開かないので、全くお金を使っている実感がなかったのだが、考えてみれば目についた支援のクラウドファンディングにはお金を出しているしアップリンクの配信サービスも古本屋の選書パックも買っているし知らぬ間にものすごい浪費をしているのかもしれない。昨日は夜中に母の日のための花を注文した。歩いて30秒の裏路地にある小さな花屋で注文することにした。
昼、フィオナを聴きながらサンドイッチを食べていたら花屋からメールが入っていた。「ゴールデンウィークは帰れないけれど」と書いた私のメッセージが気がかりだったのか、母の日よりも早い日時指定でも大丈夫とのことだった。やさしさはふと手渡されてくるものだ。
明日は婦人科に行ってピルをもらいに行きたいが、どうやら雨のようなので、迷っている。今日もお風呂を張ってバスソルトを豪快に入れた。フィオナのアルバムを1周させるくらい長くぼんやり湯船の中に座り込んで、何も考えなかった。体がお湯を吸い込んだのか、体重計に乗ると41キロに増えていた。
多分、今週の私は週5でバウムクーヘンを食べた。
バウムクーヘン以外に食べたいものが思いつかない。