ナマケる生き方、人生楽だらけ〜! 其の参「時間の捉え方」
われわれは時間というものが過去から現在、そして未来へと流れていくことが自然だと考えている。
時間の流れはなぜ過去へは流れないのか?
時間の流れはなぜ順序良く流れるのだろうか?
いや、本当に時間の流れというものが存在し、本当に過去や未来という時間はあるのだろうか?
時間に追われて忙しいと嘆きながら日々を過ごしている現代人に、
もっとのんびりしたらどうや!
もっとゆっくり行ったらどうや!
と、声をかけてみたくなる。
少なくとも時間に追われる感覚から逃れるためには、自分がゆっくりと進むことが一番のような気がする。
24時間などという時計に刻まれた目盛に、自分の時間を左右されること自体がおかしい気がする。
柱にかかった時計を外し、腕に巻きつけた丸いものを外したところから一日をはじめよう。
陽が昇り、陽が沈む。
時間を刻むものとすれば、じつはこの2つしかないのではないだろうか?
もう陽が沈んでしまえば、翌朝陽が昇るまでは人間は活動を休止してしまう。
そうなってくると、春分と秋分を境に日の長さは刻々と日々変化していく。夏に近づけば日が長くなるわけで、その分活動する時間も長くなる。
冬に近づけば日が短くなって、活動する時間も短くなる。
元来、人間の体内にはそういう時間を調整する機能が備わっていて、だれでも冬から春に向かって日が長くなるのを感じると気分は高揚するだろうし、逆に秋から冬に向かって日が短くなっていくのを感じるとどこか寂しさを感じるのが自然である。
だから1年中同じ時間で労働をすること自体、身体にとっては全く不自然なことを強要しているのだと思う。
経済がグローバル化すればするほど、ますます忙しさと時間からの制約に悩み続けることであろう。
3.11以降、日本人の意識は確実に変化してきている。
これは日本人にとってのパラダイムシフトであると言っても過言ではない。
それは誰しもが感じ始めたことである。
おカネとか便利さ、快適さを最優先にしてきた生活から、ゆとりとか共生とか助けあいを優先させつつある生活に移行している。
その一方で反グローバル主義的保護主義が台頭していることも否めない。
しかし、どちらにしても時間の捉え方は、経済優先を根底とし、けっして自然の流れのようなものとは一線を画している。
ゆとりや共生の根底には少なくとも柔軟に伸縮する時間の感覚が必要であり、けっして24分割された同じリズムで進む時間は必要ないのである。
江戸時代の日本人にはそれ特有の時間の感覚があったように思える。
それは現代人とは大きく異なる時間と人生の捉え方があったのではないか?
江戸時代という270年間は国内で大きな争いごともなく、じつに平和な時代であった。そんな平和が続いた国は世界中どこを探してもないのだ。
あのローマでさえ100年ほど。
いかに江戸時代が平和な時代であったかおわかりであろう。
江戸時代の人々、とくに名もなき庶民たちの生活は、貧乏であったけれども困窮していたわけではなく、時間をたっぷりと持っていたので忙しさに自分を見失うこともなく、質素ではあったが雨露がしのげて、いわゆるおまんまが食べられた時代であったように思う。
もちろん、現代のように社会保障制度があったとは到底言えないだろうが、幸福感というのは金銭やモノの豊富さとは一線を画したところにあるのではないかと考えている。