こんな日もあります
寝そべるしあわせ
秋晴れの青空と乾燥した暑くもなく寒くもない空気、庭の柿の木にたわわになる甘柿を啄みに来る鳥たちの囀り。芝生の上をひらりひらりと舞い踊るモンシロチョウ。
こうして季節を感じながらハンモックでのんびり本を読んでいる。
日常の間に味わえるしあわせ。
その読んでいた本の中に目を止まらせる一節があった。
『今や、銀杏の木と自分の境目は、なくなりつつあった。モノというモノの名前が全て消え去ろうとしている。いつか、一樹を抱いて庭を見ていた時に感じた、あの不思議な心持ちだった。』
「昨夜のカレー、明日のパン」木皿泉著より
夕子がまだ自分の息子が言葉も話せない小さな頃、縁側で庭の銀杏の木を見ながら、自分たちがその木の中に溶け込んでしまいそうな不思議な感覚に陥ったことを思い出すシーン。
モノと自分の境界線が出来上がっていくのは、そのモノに名前をつけていくからである。
モノを認識するためには、モノに名前がないと認識できない。
言葉を知らない赤ん坊の息子の一樹の世界には、自分とモノを隔てる境界線がないわけだ。その息子を膝の上に抱いていると、モノであるところの「銀杏の木」はモノとしての対象物から自分という自我と一体になっていくのだ。
言葉というのは人間の生命活動そのものであるから、言葉との戯れをやめるとき、その人間には死が訪れる。
銀杏の木との境目がなくなった感覚が戻ってきた夕子の死が近づいてきている暗喩表現なのだが、とても巧みである。
こうしてハンモックに寝そべっていると、光の色、自然の音、肌が感じる熱、全ての波長が渾然一体となり溶け合う感覚って、余計なモノを削ぎ落とした幸福感なのである。