【59】前髪を掴めない #睡沢週報
幸せの神様は前髪しか生えていないからチャンスを逃すな、という不敬にもほどがある例え話がある。大して信じてもいない神を奇抜ハゲ扱いしやがって。罰が当たるぞ。
とはいえ、世の中には「子どもに引きずり倒されているお地蔵様を助けたら、夢で『子どもたちと遊んでいたのにどうして邪魔をするのか』と叱られてしまった」という話もある。案外罰が当たるのは私の方なのか。
ビジュアルイメージはともかく、逃すと次がないチャンスというものは往々にしてある。noteを再開するタイミング、ブログを更新するタイミングもそうだ。怠けていたわけではないのだ。
特に掴めないのが秋の前髪。秋というやつは本当にいつ来たのかわからない季節になった。
もう四季はないのか
こんなことは散々言われていると思うが、すでに日本から四季という区分は消え去った。初夏、夏、晩夏、冬と区切るしかない。
四季は長らく日本の観光資源として扱われてきた。なぜか他国に季節がないと思っている人がいるくらいだ。日本政府観光局の記事ですら自信満々に「明確な四季がある」と売り文句にしている。
しかし、結局のところこれは諸々の気候条件が重なって生じる循環なのであって、気候変動の過程で変化するのは当然のことだろう。
花粉症の最初夏。暑すぎて外出できない夏。いつ終わるのかわからない晩夏。急に冷え込む冬。これを四季と呼ぶのはそろそろ限界がある。9月の末に外気温は30℃を超えているんだぞ。
駅で黄色い葉を見つけて「小さい秋見つけた!」とはしゃいで駆け寄ったら暑さか病気かのいずれかにやられて枯れかけているだけだった。こんな悲しいことがあってたまるか。
風土教育の原点
そもそもどこから「日本の四季を誇る風潮」が生まれたのかと最近考えていた。私が好んで作品の題材にする英国にも季節はある。なんてったって庭園文化の国だ、季節柄にはうるさい。
親類の宿題を手伝うために自分が学生時代に使っていた参考書を引っ張り出して、ふと気がついた。和辻倫理学に端を発する日本文化論こそが原点なのではなかろうか。
和辻哲郎は大戦期を生き抜いた思想家だ。彼の記した『風土』はまさに空間と人間の精神を結びつけて考えるような著作で、現代にも影響を残しているし、高校倫理の教科書にも載っていた。
モンスーン型気候、砂漠型気候、牧場型気候で人間の精神性や社会構造はそれぞれに最適化されていく……という論は誰しもどこかで目にしたことがあるだろう。あれがそうだ。
この手の、ある種環境決定論と見なすこともできるような思想は、往々にしてナショナリズムに取り入れられる。「他国と違ってうちはこうだ」を示すわかりやすい思想になりうる。
四季を観光資源にしたのはナショナリズムに後押しされた環境決定論だ、とまでは言わないが、少なからずナショナリズム的なアイデンティティに結びついていることは確かだろう。
そうなると、気候変動でダメージを受けるのは自然環境だけではなく、人間の精神もなのかもしれない。拠り所となる四季を失えば、郷土愛は一体どこへ向かうのだろうか。
何事も前髪が掴めるうちに
気候変動はもう個々人の努力でどうにかなる段階を通り過ぎた。これについては私などよりもっと専門的に政治と経済を学んだ人が論じるべきだろうし、火傷したくないからこれ以上は何も言わない。
めちゃくちゃなつなぎだが、インボイス制度の話をしたい。事実上の増税であるインボイス制度は誰も得をしないシステムだ。免税事業者以外にも廃業や物価高にとって重いダメージが入る。
私は当事者だ。なんてったって零細フリーランス、単価の安さとフットワークの軽さを売りにしてあちこちでお手伝いをして糊口をしのいできた。
インボイス制度が始動すれば私はおそらく職を失う。運が良ければアルバイトが見つかるかもしれないが、それもまだわからない。身体のことがあるから、やれる仕事は限られている。
そもそもインボイス制度が何なのか、実はよくわかっていないという人もいると思う。それは当然だ。よくわかる説明がないままなのだから。
そういうわけで、民間の有志が制作した「なぜインボイス制度をSTOPすべきなのか」を紹介させてもらいたい。
ここから反対署名にも参加できる。まだの方はぜひ確認してみてほしい。