百目鬼の物語

※宇都宮には、俵藤太として知られる藤原秀郷が「百目鬼」という鬼を退治したという伝説があります。それにまつわる物語を書いてみました。

 その日の午後、私が館に戻ると、門番が数人の村人と話していた。

 詰め寄られていたという方が正しいだろう。村人はいずれもそれなりの年齢のものたちだった。ふだんであれば、あのように礼儀を失することはない。
 本当は、素知らぬ顔で通り過ぎたかった。一日の疲れが体も心も鈍重にしていた。
 だが。
 私は馬を降りた。「どうした」
「この者どもが……」門番はどうにも困惑し切った顔だった。「この者どもが申すに……」
「おい、しっかりと話せ」
「——お前たち。こちらのお方は館では殿の次に偉いお方だ。その方が聞いてくださるから、もう一度、話してみろ」
 聞くなどと言った覚えはなかったが、私は従者に馬の手綱を与えて世話を任せ、村人たちを門の内側に招き入れた。本棟から少し離れた庭に座らせ、私も土の上にあぐらをかいて訊ねた。「それで、何事かな」
 村人たちはしばらくおどおどしながらお互いに視線を交わしていたが、ようやく長らしい老人がずいと身を乗り出して——
 ——話し始めた。

 殿が館に戻って来た。
「ご帰着だが——さて」
 長く仕えていると、直接見ずとも雰囲気で殿の機嫌がわかるものだ。そしてその時の殿は、村人の話などとても聞いてくれはしないようだった。
 それに、今聞いたばかりの話はなんとも驚くべき内容で、殿にどう伝えたら良いか、さすがに見当がつかなかった。
 私は村人に「少し、待て。折を見て話してみよう。俺が呼ぶまで、裏で控えておれ」と命じた。村人たちは不安そうな顔で頭を下げた。
「腹は減っているか」
「へえ」と長が言った。
 私は手近な者を呼び止め、彼らに飯を出すように指示を与えた。そしてその後ろ姿を見送ると、しばらく思案した。
 縁側を大股で歩く音がした。殿が居室に入った。私はすぐにそちらへ向かった。

「首尾はいかがでしたか」
 何やら考え込んでいる殿の前に、私は腰を下ろした。
 殿は苦い顔でゆっくりと首を左右に振った。「いかぬ。半日がかりで訪ねて行ったが、さんざんであったわ。将門め、聞く耳を持たぬ」
「ご無礼でもありましたか」
「いや。さすがにわしが年長だからな、礼は逸せん。だが何も聞き入れようとも、せぬ。都の大臣からの言伝にも、笑うばかりだ」
「将門殿が——そのような御仁ではなかったと思います」
「そうだな」殿は口元を歪めて、力のない声で答えた。「だが——人は変わるものよな」
 そう言って、腕組みをしたまま天井を仰いだ。
「変わるものだ。それが、正直言って、羨ましい。変わることができるのは、若いからだ。将門は若いのだ。わしは——」
 それきり、言葉が切れた。

 平将門殿が、坂東のこのあたりで、このところ頻繁にいくさをしかけている。武士が争うのは珍しいことではなく、また将門殿も無理な争いはしてこなかったので、殿は「将門は元気が余っておるからな」と笑って見ていた。
 ——そうは申されましても、近頃いささか、過ぎるのでは。過日、そう申し上げたことがある。
 殿は、なに名分は将門にあるのだと言いながらも、少しばつが悪そうになって、私から目を逸らした。私はその時、殿の顔の皺がさらに深くなったように思われた。
 将門殿とわが殿は、親密ではないが知らぬ仲でもない。都にいた時には、ともに酒を飲み遊んだことも度々あった。そんな時、将門殿はわが殿に必ず礼を尽くすことを忘れなかった。
 若い二人が笑い合う姿は、輝くばかりだった。烏帽子の下の黒々とした髪、炯々とした瞳。私は二人を見ながら、この時が長く続くことを祈った。
 それから、幾年月。
 私は、殿の顔を見つめた。烏帽子の下の髪は、すっかり白い。瞳はすでに弱く光るばかり。顔に刻まれた皺も、以前よりはるかに深くなった。昔は、女人たちが顔を赤らめながら噂したものだ。「あれが藤太殿か」「益荒男ぶりを見よ、逞しき腕を見よ」「なんと、絵のような男ぶりではないか」「そしてあの声。艶やかでありながら力強いあの声」女人たちはそう囁きながら、うっとりと殿を見つめたものだ。今もその面影はしっかりと残っている。
 残ってはいるが、しかしもはや女人たちは騒がぬ。
 噂もせぬ。
 俵藤太の名前は忘れられ、もののふの棟梁たる藤原秀郷が、こうして私の前に端座している。
 時はこのように、人を変える。

 殿は組んでいた腕を解き、私を見た。なにやら面白げな表情になった。
「なんだ、昔が懐かしいのか」
「私の考えていることが——」
「分かるとも。お前は昔から正直者だからな。初めて会うた時から四十年、ずっと変わらず正直者よな」
「恐れ入ります」
 頭を下げた私の上を、久しぶりの笑い声が飛んで行った。
「何歳になる」
「殿よりも三つ、年上でございます」
「なるほど、髪が真っ白になるわけだ。それに、もともと細い目が皺にまぎれてよう分からんようになっているぞ」
「失礼ながら、殿も」
「おお、鏡を見ているようだ。わしだけではない、奥もそう言っておる。二人を見ているとどちらがどちらか分からなくなると」
 私は、奥方の顔を想った。年老いてなお美しい顔。三十年前に殿の夜這いの供をして、庭の隅から伺い見て以来、その顔を忘れたことはない。
 だから、想い出すこともことも、ない。
「まあ、良い。すぐには事態は動くまいよ」
 屈託を見せたことで、殿の気も少し晴れたのだろう。
「何か用があるのだろう。どうした」
「は——」
 私は少し言葉を切り、考え、そして口を開いた。

 館のある田川を北に進んだところに、兎田という場所がございます。そこに老いた馬を捨てにいく「馬捨場」があるのは、殿もご存知でしょう。今日、その近辺に住む村人たちが数人、館にやってきました。そのものたちが申すには、なんでも近年、そのあたりに大勢の鬼が現れ、捨てられた馬を殺して喰らうのだそうです。そればかりか周辺の村も襲って食物を奪い、女を拐かし、赤ん坊を連れ去っていくのだそうです。そして数日後には、必ず馬捨場に小さい骨が散らばっているのだそうです。
 村人たちは最初は抵抗しましたが、鬼たちは闇に紛れて襲いかかり、男たちの首を次々と刎ねて、首は村の周りに晒し、体は田川に投げ捨てるため、どうにもならないと聞きました。そこでたまりかねて、本日この館に助けを求めに参ったのです。
 俵藤太に。
 助けを求めて。

「鬼、とは」
「鬼の頭目は、どうめき、と名乗っているそうです」
「どうめき」
「百目鬼」
「百目鬼と。鬼の集団の頭目だから、百目鬼と」
 すでに夕刻となり、部屋の中に暗さが忍び込んで来ていた。殿はもう一度、
「どうめき」
と呟いた。その表情は、はっきりとはうかがえなかった。
「俵藤太様しか、もう頼れるものはないと。村長は私の袖を千切らんばかりに掴んで」
「たわらのとうた。懐かしい名前を聞く」
 その声に怯えを感じたのは、私自身の迷いだったのか。それを振り払うように、私は少しだけ語気を強めた。
「ムカデ退治の英雄に、鬼を退治してほしいと」
 殿の声は、もはや呟きに近かった。「あれは——」
「殿」私は自分自身を励ましたかった。「殿、あの時私は殿と肩を並べて、刀を振るっておりました」
「そうだ。ムカデを切って、切って、切りまくった」
「ムカデを。いや、百足組と名乗る野盗の一味を」
 殿はまだ十代、私は二十歳を少し過ぎていた。若く、力が漲り、恐れを知らなかった。失うものなど何もなかった。すべてが未来へと続いていた。
 近江の湖のほとりで、あの夜、殿と私は不敵な笑みを浮かべながら、野営していた百足組に喚きながら切り込んだのだ。たった二人で。二人だけで。
 その時の、野盗ばらの驚愕した顔は、今も覚えている。まだ長い刀をしっかり握ったまま夜空へ飛ぶ腕。鮮血を溢れさせながらも喚くのを止めない歪んだ顔。敵味方を構わず降り注ぐ矢。炎が黒々とした闇を破り、倒れ落ちるものどもの水しぶきが湖面を揺るがした。
 殿は、端正な顔に笑みを浮かべながら、刀を振るっていた。
 そうだ、笑っていたのだ。汗と血を振りまきながら、笑っていたのだ。
 どこかで「鬼だ! 鬼が来た!」という悲鳴が上がった。そして親しんで来た若い声が「おうよ!」と返し、笑っていた。
 そうだ、俺たちは、鬼だ。
 私ははっきりと思い出した。若さの化身、俵藤太の勇姿を。鬼武者を。

「俵藤太のムカデ退治か」
 殿は——藤原秀郷殿は、怯えた声を洩らした。
 そう、怯えた声を。俵藤太ナラヌ藤原秀郷ハ、怯エタ声ヲ洩ラシタノダ。
「若かったな。若さ故に、たった二人でも何も怖くはなかった。失うものは何も」
「失うものはありませんでした、あの時」
「だからこそ、切って切って切り結ぶことができた。そうなのだ」
「あの時は」
「あの時は——」
 私は、息を詰めて、続く言葉を待った。
 わが殿は、夕闇の中で掠れた声で言った。
「——あの時だ」
 それは、まもなく五十路の半ばを越える、ありふれた男の声だった。
「もはやわしは——そうではないか、わしにはもう——」
「殿」
「——む」
 私は、ついに視線を落とした。もはや殿の姿を見続けることはできなかった。

 その時、バタバタと足音がして、一人の家臣が飛び込んで来た。
「殿!」
「どうした、騒がしい」私は叱りつけた。
 その家臣は、真っ青な顔で転げるように殿の前に出た。
「将門殿が!」
「何事だ」
「下野国府に攻め入りました!」
「何だと」
 私は殿を見た。
 殿は、影の中で身じろぎもしなかった。「まことか」低い声だった。「攻め込んだのか」
「は——まだ詳細は分かりませぬが——」
 私は殿に語りかけた。
「さっそく偵察を」

「いや!」
 殿は、いきなり立ち上がった。反射的に見上げると、驚いたことに殿は目を輝かせていた。
「将門が立ったのであれば、国府はひとたまりもあるまい」
 殿は拳を握りしめ、私の目の前にぐいと突き出した。
「しかし——」「将門は、次はこちらを攻める。わしが味方になるとは露ほども思うまい。将門もわしも、互いのことはよく知っているのだからな」
 徐々に、徐々に、殿の声に力が漲って来た。「坂東は激震だ。わかるな。もののふにとってまさに生きる刻が到来したのだ。我らもののふの刻なのだ」
 野太い声でそう言うと、殿は私の目を覗き込んだ。
 私は息を呑んだ。
 瞳の中で若き俵藤太が哄笑していた。たくましい全身を震わせながら、吠えるように笑っていた。
 家臣たちが何人も部屋に走りこんで来た。殿は部屋の真ん中に仁王立になり、叫ばんばかりに指示を出した。
「戦さの準備だ。怠りなくかかれ。つわものどもを呼び集めよ。平貞盛殿に知らせを走らせよ。都にも急いで使いを出せ。さあ、ぐずぐずするな!」
 家臣たちがあたふたと退出すると、殿は私を見た。
 にこっと笑った。
 都で女たちをとろけさせた、あの笑顔だった。将門殿と酒を呑んでいた時の、あの笑顔が、とうとう戻って来た。
「将門め、わしが訪れたので不安になったのであろう。いよいよ危ない、いま攻めねば自分が攻められると思い込んだのであろう。愚か者め、疑心暗鬼に食い尽くされたのだ」
 そうだろうと私は思った。疑心暗鬼に食い尽くされ、将門殿は鬼になったのだ。鬼になれば人の世では生きられぬ。
 では、殿は——。
「行くぞ」殿は愉快そうに笑いながら、刀をつかんだ。
「何処へ」「村へ」「村」「兎田の馬捨場へ」「しかし、いくさが」「いくさか。いくさなど何ほどか」
 殿の顔は真っ赤だった。体が何倍にも膨らんだように見えた。
「いくさの前に、俵藤太が鬼退治に行くのだ」
 違う。鬼は殿だ。百目鬼が人か鬼かは分からない。しかしいま、殿は鬼だ。
 あの湖のほとりのように。殿は鬼なのだ。
「来るか?」殿がからかうように私に言った。
「私は」言い淀む。「私は」
 私は——また、鬼になれるのだろうか。なりたいのだろうか。
 また殿の声がした。「来るか?」
 私は目を閉じた。そして、そこにあるものを、凝視した。

「来るか!」

 もはや私の返事など待たないまま、わが殿は——俵藤太藤原秀郷殿は、すでに暗くなった外の世界へと、まっすぐに駆け出したのだった。

(2020年4月6日初稿、7日修正)


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