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わがつまさんのライブに行った

日常に溢れているような何気ない会話や、何気ないやり取り、何気ない風景。生活の中で、自分たちは多くの場合それらを、横目に通り過ぎていってるように思える。無感覚は言い過ぎだけど、普通のこととして。だけど、例えば小説なんかで書かれる何気ない日常を読んでいる時に、それが尊いものだと、自分が感動していることに気づくことがある。普段の生活ではそれらが無感情のベールに包まれているように。

わがつまさんの歌を聴いている時に感じるそれは、まさにその、見えないベールで隠されてしまっている、何気ないものが本当は持っている、綺麗さを垣間見た時の感動のようなもの。なんだか、それは特別なことではないけど、それは特別なことであるはずというか。だけどやっぱり、日常を無感覚ではなく、色をつけて過ごせる時間というのは、それに気づけることは、貴重な機会なのだろう。

自分はわがつまさんの歌に、愛おしい子供性みたいのも強く感じる。それは、例えばある少女の物語を、その女の子の視点で見ているような。実際わがつまさんの歌を聴き始めた頃、わがつまさんの曲に対して子供部屋というイメージをまず持った覚えがある。だけども歌詞の内容をよく見ると、別に歌詞の精神年齢が子供であるわけではない。曲から離れて、歌詞を読んだ時にそのイメージのちょっとしたギャップに変な驚きが自分の中で起きてるのを気づいたりする。そのイメージは、やっぱりあの気の抜けた声によるところが大きいと思う、少し舌足らずな歌声。そして曲の中で、不意に描かれるピュアで絵本のようにカラフルで可愛い歌詞、それが子供部屋のようなイメージを作っているのかな。もちろん曲の要素全体として、感情を動かしてくるんだろう。
自分が、歌詞を文脈じゃなくて、パッと引っかかったフレーズを頭にイメージする、という聴き方もあると思う。もちろん意識してそう聴いてるわけじゃないけど、こうやって断片を拾ってイメージが出来上がっていく聴き方は結構好き、洋楽なんかは特に、わからない部分も多くて、全体を理解せずに隙間隙間を無意識に近い想像で埋めていくような解釈が進んでいく。

話を戻すと、こうやって感動してしまうこの子供性というのも、特別なものではないのだと思う。例えば普段、子供を見た時に、こんなにも、ある意味切ない感情が溢れることはない、思ってもかわいいなと思うくらい。だけど、なんというかわがつまさんの歌を聴いてると、子供や少女の概念が持つ完璧な純度の感情を見てしまったような、それが中に存在することを思い出したような感動がある、それが世界に存在することを実感を持って思い出せたような。

ライブを聴いて、内に湧き上がったなんとも言えない感情を書いて整理したかったんだけど、途中から自分でも何を書いているかわからなくなった。でも、あのライブで湧き上がった、自分でも理解できていない感情の中で自分はギュッと泣きそうになった。まとまらないままだけど、もう寝ようと思う。最後に「街」という曲を聴けてよかった、終わって箱を誰よりも早く飛び出して帰った。おやすみ

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ライブが終わって数日、街を聴いている。Twitterで見かけた誰かの投稿「美しいものを部屋の外に持ってきて、外の人に見せてくれてありがとう」。本当にそうだと思った。わがつまさんの今後を、どんな形になっても応援したい。わがつまさんの曲が、わがつまさんがそれを外に持ってきて見せてくれたこと自体が自分にあの感情を湧き上がらせ、確かに精神的に支えてくれたのと同じように、わがつまさんがそういう平和の中で過ごせることを祈っています。

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