「17歳の瞳に映る世界」を見て
数日前にRoe v. Wadeが転覆されたのをきっかけに、気になっていたこの映画を見てみた。一番印象に残ったのは、これがアメリカ人の17歳の少女(たち)を主人公に据えた映画でありながら、ほとんど彼らが余計な言葉を交わさないことだった。アメリカ人のティーンエイジャーの少女が映画に登場するとき、大抵彼女らはおしゃべりで、あるいはシャイだとしても、なにかしらやりたいことを持っていて、最終的には強い意思とともに、故郷の町を旅だったりする。この映画で彼女(たち)がそのような態度を取らないのは、一つには二人が似たような境遇にあって、言葉を交わさずともお互いの気持ちがわかる、ということがあると思うが、もう一つには、彼らが社会へ言葉をなげかけることをとうに諦めている存在であるからだと思う。
アメリカ社会においては、言葉にしない(意思表示をしない)ことは、考えていないことと同等にみなされる傾向にある。それは日本社会とは異なるアメリカ社会の大きな特徴の一つのような気がする。だからこそ、この映画での少女たちの言葉数の少なさは、これがアメリカ映画であることにおいて、大変大きな意味を持つように思われる。かつての《アメリカ的なもの》それ自体への諦めのように(以前ドラマ「ユーフォリア」を見たときも同じようなことを感じた)。
そのようにして、彼女たちは、映画の中であらかじめ諦め、奪われた存在として現れてくる。彼女たちは一見、とても淡々として、驚くほどドライに見える。バイト先でのセクハラも、甘んじて受け入れる。そこには抵抗も打算もない(訴えもしない)。ただ、どこまでも投げやりである。「産む」ことを勧める地元の産婦人科の先生に、意見することもない。泊まる場所を提供するという病院からの申し出すら、断ってしまう。
だからこそ、主人公が産婦人科のカウンセラーの質問に答えようとして、抑えていた感情があらわになる瞬間は、映画の中で何よりも際立つ。彼女たちはドライなのではなく、ただ現実への対処としてそのように「させられている」だけであることがその瞬間、明らかになる。彼女たちは平穏を装い傷ついた自己を制圧し、なんとか生き永らえている。あるいは、主人公の手術前に手品をしてみせる従姉妹はどうだろう。「変えられない」現実を前に、強い言葉(正論とも言えるかもしれない)とともに立ち向かうのではなく、ただ辛い現実を少しでも紛らわせられるように、黙って寄り添う態度の健気さに、心が締め付けられる。
Harper’s Bazaarのレビューには、映画「無ケーカクの命中男/ノックトアップ」(2007)において「Abortion」という用語が一切使われず、かわりにそれが罵りの言葉のように「A-word」という湾曲表現によってなされたこと、あるいは映画「Obvious Child」のマーケティングの際に、Abortionという単語が使われたことで全米の放送局に7年間その予告編が拒否されたことが述べられている。
そのような事実を踏まえるとき、この映画が何よりも革新的なのは、最終的に少女に「中絶させた」というシンプルな部分にあると思われる。養子にやっても良いから、一旦「産む」という主人公の決断が、見る側にとって心安らかであることは明らかだ。最後に生まれたての赤ちゃんを抱く主人公が一瞬でも画面に映されれば、いろいろあったにせよ、感動の涙とともに気持ちよく映画館を後にできる(映画「JUNO/ジュノ」のように)。実際、この映画を見ながら、最後に彼女が全てを翻して「産む」という決断をすることを、無責任ながら心のどこかで密かに祈っていた自分を認めないわけにはいけない。ただ、現実において物事はそう簡単ではない。あらかじめ奪われ、状況を受け入れる存在として描かれる彼女が、この映画の中で唯一示した意思の結果が「中絶」であることは、なによりも残酷で悲しい。しかし、だからこそ絶望的な状況において、「中絶」がほとんど何もかも奪われてしまった少女たちが示すことのできる、数少ない「選択」(choice)であることを思うと、この映画のラストはやはり究極的な意味でのハッピーエンドなのだろうと思う。
それから、この映画が映像として素晴らしかったのは、コダックの16mmで撮られていること、クロースアップとロング・ショットが絶妙にバランスよく用いられていた部分にあると思う(撮影監督はHélène Louvartというフランス人の女性で、ライティングにもこだわっているよう)。邦題はあまり内容を反映していないようにも思われるが、バスの窓から過ぎ去る景色を見やる主人公たちの無垢な表情を見ていると、そうしたくなった気持ちも分かるような気がしてくる。言葉や説明が少ない分、少女たちの表情や、彼女たちの眼差しの先にある風景に主題を語らせる必要があることを踏まえると、こうした映像がただ美しいだけのポエジーに終始せず、そこに必然性があることが見えてくる。先ほどのレビューの言葉を借りると「わずかさと微かさにおいて、この映画はごく少ない言葉で、多くのことを成し遂げている(Sparse and subtle, the film achieves so much with so little dialogue. )」。
エモーショナルなシーンをわざとらしく演出してそう見せかけるのではなく、映像によって主題を語らせるという点において「ほとんど何も起こらない」移動のシーンもまた本質的である。ターミナル駅で大きなスーツケースを持ったまま移動することが、どれだけ煩わしいか。バス移動や、朝まで駅で時間を潰さなければいけないときの、のろのろとした時間の流れがあえて映画に手触りと重みを与えている。
さらにレビューには、これが「赤の牙城」であるペンシルバニアの田舎から「青い」ニューヨークへの移動であり、「映画にニューヨークの主要なランドマークは一切映っておらず、かわりに複雑な交通システムを持つ迷宮として描かれている」ことが指摘されている。ここでのニューヨークは一般的な映画で描かれるような、たとえば主人公が夢を持って美術大学へ進学するときの、華々しい文化都市としての姿ではない。バスで一緒になった男が何度か口にする「ニューヨークのアンダーグラウンドカルチャー」への二人の冷めた眼差しと圧倒的な無関心はどうだろう。そんなものより彼らにとって遥かに切実なのは、地元へ帰るためのバス代60ドルなのだ。そのためには、身体的接触にも甘んじて耐えてみせる(彼女たちがいつもそうしてきたように)。何も知らない彼の隣で、彼女たちは生まれることのない胎児という黒々とした秘密を共有している。だが、彼女らが彼(ら)にそれを告げることはない。少女たちはただ黙って、かろうじて互いに柔らかな手を取り合うだけなのだ。