「君たちはどう生きるか」感想
ナウシカの映画をつくったとき、宮崎駿の最初の案が冗長すぎて、周りの人の意見で短縮したけど、それに納得できなくて漫画を描いたという話があるけれど、宮崎駿が自分のやりたいことを自由にやるとこうなるんだろうなという気がした。それはリンチがツインピークスの続編で抽象的な世界に走ったのと似ている。やりたいことをやりたいようにやるとこうなる。そしてそれは多分、作品としての完成度とか分かりやすさとは必ずしも比例しない。でも宮崎駿はこれまでたくさんバランス感覚に長けたマスターピースを生み出してきたのだから、これはこれでいいように思う。もう本当に、宮崎駿はこれが自分の遺作になるということだけを意識して作ったんだろうなと。というか最後に、宮崎駿が君たちはどう生きるか、という未来への投げかけをしたということが既に泣ける。このどこまでも後ろ暗い世界で、偽善でも戯れでもなく、それでも後の世代に未来を託そうとすることを。
難しいという人もいるけど、いろんなメタファーの読み解きとかは多分どうでもよくて、宮崎駿は割と素直に言いたいことを言っているんじゃないかと思う。だから、これが分からないという人は、読解力の問題ではなく、感覚的に宮崎駿とメンタリティーを共有できてないというだけの気がする。直接的に言うと、生きることの根底にむなしさを感じており、かつそのことに自覚的な人にしかあまりわからない映画なのだろうと思う。つまり、日常的に「どう生きるか」という問いを自らに課しているような人間でなければ。
個人的に見ていてグッときたのが、最後に妹(母親)と主人公が、別々の扉を開いて同時に出ていくところ。これが死を受け入れる、ということなのかな、と理解した。ここでは生きている人間と死んでいる人間が並列に扱われる。つまり、人は死んでも自分の中では生き続ける、ということなのではないか。数年前に身近な人が死んで、受け入れられないまま何年かが経って、それは多分これからも風化はしないのだけれど、でも時間が経つにつれて、自分が生きることは、死んでしまった人と一緒に別々の場所で生きていくということなんだな、と気づいた。亡くなった人と、生きている自分の共生。それはもののけ姫で、アシタカとサンが別々の場でそれぞれを受け入れ生きることを選んだことを思い起こさせる。
そして主人公は、最後にユートピアに辿り着き、全能の神として穏やかで平和な完璧な世界を作れと言われたにもかかわらず、あえて不十分でどうしようもない世界に戻ることを選び取る。これは楽園にたどり着いたのに、そこからあえて立ち去ることを選択する漫画版のナウシカとほとんど同じだと思う。「石」がもともとは悪いものではなかった、というのも、ナウシカの腐海の土を思い出させる。
主人公の傷も重要なポイントだったと思う。学校に行きたくない、現実に向き合いたくないがために、主人公は理由も言わずに、ある種の逃げとして自分で自分に傷を付ける。けれど最後に、彼は長老の前で自分の傷について言及する。完璧ではない世界で、完璧ではない(=傷をもつ)存在である自分を認め、引き受け、生きていこうとすること、それが主人公にとっての、どう生きるかという問いへの差し当たりの答えになるのだろうと思う。
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