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なぜこんなにスピリチュアルに抵抗があるのか

友だちが本格的にスピリチュアルな方向に行き始めて、スピリチュアルについて考えることが最近増えている。考え始めると意外とその友人以外にもスピリチュアルに傾倒しているというか、そうしたことに抵抗感を示さない人が多いことに気づいて驚く。しかも自分と似たような趣味の似たような界隈にいる人間に。ひさしぶりに別の知人の妻のインスタグラムを見てみたら、カードリーディング?といってタロットカードみたいなのを買っていたし、月の満ち欠けがどうのとか言っている友人もいた。前の会社の編集者もよく占いを見にいってもらっていた。占いを含めると友だちのなかでも相当数いる気がする。普段は人は人、自分は自分と思っているし、友だちの考えや行動を否定もしない。でもスピリチュアルについては、ものすごく内心モヤモヤしている。なんでこんなにスピリチュアルを信じる人に対して割り切れない思いを持ってしまうのか考えてみたい。

一つには、誰もそれをはっきりとは否定できないということを盾に問題から逃げているところが何よりもずるくて嫌なのだろうと思う。そう思うと、なんとなくフワっと精神論で片付けようとする態度を示す人間が許せないときが昔から結構あった。割り切れなくても、答えがでなくても葛藤するのが人間なのにな、と思ってしまう。分からないなら分からないで、置いておけばそれでよいのだから、変に結論を出そうとするのは違うんじゃないか、勝手に事実を捻じ曲げて都合のいい解釈するなよと。岸政彦が、前にラジオで「飼っていた犬が死んだときに、●●(犬の名前)はお星様になったんだよ、みたいなことを言われて、なってねえよ、と思ってそのときに何か絶対的に許せないものを感じた」というようなエピソードを話していて妙に納得したけれど、それに近いかもしれない。でも大人になってからいろんなひとに出会って、そう強くあれる人ばかりじゃないんだということを知って、変に自分を納得させようとしてしまう人に対してイライラすることも減った。

と、思っていた。でも、仲の良い友だちがいざそっち側にいってしまうと、実際、結構嫌だった。この「嫌」というのは、騙されてお金をむしりとられるんじゃないか、大丈夫か、という不安とは別に、なんでこの子は本来合理的な判断ができるだけの知性を持った人間のはずなのに、こんなわけのわからないものをいとも簡単に信じてしまうのか、という、いわばある種のナイーヴさへの苛立ちである。おそらくこの友だちが異性だったらそこまでモヤっとしない気がする。同性の友だちというのは親しくなると割り切って考えるのが難しい。とりわけ、この友だちとは基本的な生き方に対するスタンスが近かったからこそなおのことだった。彼女もわたしもこの社会に対して息苦しさを感じているのは変わらないし、それは紛れもない事実なのだ。

前に中学の同級生が、アロマかなんだかの蒸気を子宮にあてて不妊症だかを治すビジネスみたいなものをインスタグラムで始めたのを偶然見たとき、その愚かさを笑えたのは、その子が自分とは全くタイプの違う、はっきりいうと嫌いなタイプの子だったからで、自分と今まで仲良くしていた友だちが、wixの全員一緒のテンプレでつくったみたいなイケてないピンクとか紫を基調とした謎のスピリチュアルセッション用サイト?をシェアしているのを見ると、悲しみとも名づけられないようなかなり複雑な感情に襲われて呆然となる。

けれど思えば今までの人生でも、仲良くしている友だちのそういうナイーヴな部分に苛立ったことは結構あったことに気づく。そういう純粋な部分があるからわたしと仲良くしてくれているのだろうし、その子の良さはそのナイーヴさと表裏一体であることもわかるのだけど、それでも実際そういう子が明らかに不利な立場に置かれたり、ヤバそうな人に絡まれたりしても突き放さずに、むしろ擁護するような態度をとることに対して「なんでそんな人間信じちゃうんだよ!」となってしまって、結構意地の悪い態度をとったこともあったように思う。関係性を保たせるために全力で抑えているけれど、話を聞くたび内心その会社とか男が最低であることを一旦認めさせたい、という思いでいっぱいになる。だから、スピリチュアルに対する抵抗感というのは、もしかしたら自分の友だちみたいな本来善良な人間に取り入ってしまう、というところもあるのかもしれない。まあ本人はそれによって救われている(らしい)から、実際には取り入っているわけでもなんでもなくて、現実的にはなんの問題もないのだけれど。なんの問題もないのに外野であるわたしが許せないのは、やっぱりなぜなんだろう。

そういえば、また別の優秀で優しくて好きだった同性の先輩が、少し前から謎の自己啓発セッション的なものに目覚めて、こんなわたしでも変われました!みたいなことを言っているのをfacebookで見るたびに、同じ感情になっていることに気づく。ということは、スピリチュアルに対する抵抗感というのは、単に疑似科学みたいな胡散臭いものへの抵抗というよりも、むしろ自分を変えたい、生まれ変わりたい、みたいな不毛な欲望への抵抗感と結びついているのかもしれない。その人も友人も共通して、変に自己肯定感が低い部分があるというか、自己に拘泥するような部分が確かにある。外から見ると、別に犯罪を犯したわけでもないのに、なんで生まれ変わりたいと思うのだろう? と不思議に思う。そんなわけのわからないセッションに参加して仲間内で褒めあって、変われたとか言い合ってる時点で本質的には何一つ変われてないですよ、気づいてください、と言いたい。本当に変われるときがくるとしたら、多分そのセミナー脱会したときです、と。何よりも、変わる必要ないですよ、と伝えたいのだけど、伝えられないし、だから届かない。そしてわたしのこの歯がゆさを横目に、そういう自己実現スピリチュアル系ビジネスの人々の言葉はわたしの大切な人の心をいとも易々と掴んで離さない。




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